本書『フレンチ警部最大の事件』(1925年)は、作者F・W・クロフツが生みだした唯一のシリーズ探偵・フレンチ警部が初登場する長篇ミステリです。
 宝石商の支配人を殺害した犯人と、それから、金庫から消えた三万三千ポンドのダイヤモンドのゆくえを追って、職業熱心なスコットランド・ヤードのフレンチ警部が、英仏横断、さらにはスイスやスペイン、ポルトガルといった西南ヨーロッパを舞台に、地道な足の捜査を繰り広げるのが、本書のおもだった特徴。
 事件の真相は、犯行方法にせよ犯行動機にせよ、明かされてみればいたって即物的で、単純明快なのですが、フレンチ警部が鋳型から抜け出せなくて、探偵としては凡庸であるがために、捜査の過程で大きなヘマをやらかしてしまうと。で、そのせいでかえって事件の様相を複雑かつ不可解なものにしてしまうという、クロフツ作品のお決まりのパターンです。ただ、それでもスパイ小説ふうの暗号解読のなぞが出てきたり、意外な安楽椅子探偵(?)の登場があったりと、質実剛健なクロフツなりに随所にくふうを凝らしているあたりが、本書のポイントといえそうです。また、西南ヨーロッパを列車で移動する場面が多く、ややもすればフレンチが風景に魅了される描写があるので、『スターヴェルの悲劇』(27年)の書評(追記)でも書きましたが、たしかにトラベル・ミステリとしての興趣がありますね。
 
 そういうわけで、展開がのろいのはイヤ、というかたには本書(というか、大半のクロフツ作品というか)はあまりオススメできません。……いや。思うに、探偵と犯人の攻防、そして、壮大な西南ヨーロッパという大舞台の、ふたつの要素によってもたらされる<相乗効果>、これがあるから、いちがいに断言できないところがあって。
 というのも、上述したように探偵が凡庸なため、一歩一歩、遅くても着実に犯人を追い詰めていくのですが、その過程において、ときどきヘマをやらかします。すると、それを知った犯人は、追い詰められながらも、逃亡のためにうまく利用してやろうと、ここを先途とたくらむわけです。そのように、一見のろい展開のなかにも、じつは「探偵vs犯人」の攻防がスタティック、かつリアルタイムで変化してゆくといった緊張感があるんです。それだけに、無駄骨おりの連続で、狡猾な犯人に振りまわされるばかりのフレンチの犯人逮捕への執念や気迫は、真に迫ったものであるし、同時にまた犯人にしても、万策を弄して、どうにかこうにか警察の手から逃れようとするそのありようが、真に迫っていて。
 ところでクロフツ作品は、一貫して「足の探偵」を採用することから「リアリズム推理小説」と呼ばれるのが一般的のようですが、ぼくにいわせれば、それは皮相的な見かたにすぎません。そうではなくて、じつは、探偵と犯人のいわば追いかけっこが、肉体的な意味でも心理的な意味でも、真に迫った描写がなされている(すくなくとも、事件のからくりが種あかしされたあとで、そのありようが、くっきりと浮かび上がってくる)。だからこそ「リアリズム推理小説」なんです。
 そういう意味では、これは社会派ミステリの源流ともいえるでしょう。


 英国探偵小説の大傑作『樽』(1920年)の作者として知られる、フリーマン・ウィルス・クロフツの七作め『スターヴェルの悲劇』(27年)を読了(スコットランド・ヤードのフレンチ警部が探偵役として登場するシリーズ作としては、これが三作めにあたります)。
 クロフツはアリバイ崩しで有名で、本書でもそのシーンは出てくるものの、けっしてそれがメインの謎ときではありません。ひらめきよりも経験・行動の、「足の探偵」と称される堅実なフレンチ警部の凡庸さゆえに、狡知にたけた真犯人のミスリードにまんまとはまってしまうというミスディレクション重視のプロットが、ポイント。
 本格推理といえば本格推理ですが、フレンチをはじめクロフツのえがく探偵には、良くいえば職人的、悪くいえば株を守ってウサギを待つところがあって(クロフツは退屈、とややもすれば評されるゆえんです)、そのせいで画竜点睛を欠くところが、しばしばある(本書では「第三の死体の謎」の処理のしかたに、それが顕著です)。本書でも、推理・捜査が行き詰まったフレンチに対して、フレンチよりも頭の切れる上司(ミッチェル首席警部)が、気分転換と称してさりげなく局面打開のためのアドバイスをしたりする場面があって、あきらかにクロフツは、個人よりも組織、という力学を強く意識して書いています。だから、本格推理というよりもむしろ、「本格捜査小説」といった趣きであって(警察小説というのとは、またちがって)。
 大半のクロフツ作品に共通する、事件の本筋をひたすら追うというストイックな作風はむしろ好ましく、本書も悪くはないできの作品ですが、ただ、こうした重厚な「足の捜査」を喜ぶひとは、少数派なのかなあ。いわゆる「いまどきの『本格』読者」は、はたして付いていけるのだろうか?

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 綾辻行人さんの<囁き>シリーズ三部作の一作め『緋色の囁き』(一九八八年)を読了(再読)。
 初読は、ずいぶんまえのことで(高校のころだったっけ?)、内容はほとんど忘れていました。本書最大の関心ごとであろう「意外な犯人」のことすらも、不思議と忘れてました(どれだけまえに読んだ作品でも、たいてい犯人のことは覚えてるのですが)。
 正直、この「意外な犯人」については、意外といえば意外ですが、その「驚かせかた」に感心しません。これはようするに、個人的な好みからです。
 そもそも本書は、ジャンル的にいうなら、ホラー・サスペンスで、<館>シリーズのような精緻な謎解きを期待して読むと、拍子抜けすることでしょう(その点、三部作の最後を飾る『黄昏の囁き』(九十三年)が、最も本格色が強かったような)。しいていうなら、のちの<殺人鬼>シリーズに相通ずる世界観で。なお、同シリーズは一作めの『殺人鬼』(九十年)を途中まで読み進めて、そのあまりのスプラッター色に耐えきれず、挫折しました(その種の小説が、ぼくは大の苦手で……)。
 
 閑話休題。
 ようするに、ジャンル的にいえば、あまり好みではない作品なのですが、それでも好みとはべつに、その「読後感」にかんしては、特筆すべきものがある。その読後感とは、集約していえば、この作品のテーマ、すなわち<魔女>。
 読みどころは、殺人鬼が、ある種の成員を一人、また一人と殺してゆく過程にあって、その過程において、フーダニットとホワイダニットの謎があると。たしかにこのあたりは、さすが綾辻さん、ストーリーテリングのうまさが目を引きますが、でもその驚かせかたが好みでないということは、さきに述べたとおりです。
 ただし、それでも興味深いのが、このプロット、一人また一人と、どんどん犠牲者が増えるにつれて、いったいだれが「魔女」で、だれが「魔女でない」か、その線引きがしだいに曖昧模糊としてゆくのです。そして、真犯人のすがた、そしてそのうら哀しき人生のありようが、つまびらかに描き出されたとき、ぼくのなかでひとつの懐疑が浮上しました。
 すなわち、この世には「本物の魔女」など存在するのだろうか? もしひとりでも「魔女」がいるということであれば、この世はそのじつ「魔女ばかり」ということにはならないだろうか? でもそれは、裏を返していえば、「本物の魔女」などじつは存在しない、ということなのでは? ……
 作者による最終的なホラー・サスペンスな処理とはべつにして、ぼくはそのような、まるで夢寐にも似た抽象的であると同時に、内実、普遍的な読後感を、まるで上部マントルと下部マントルの境界線を彷徨するプレート残骸になったような気分で、持て余してしまうのでした。


 1985年デビューのミネソタ出身の兄弟・姉妹8人(!)からなるファンク・ポップ・アイドル・グループ、ジェッツのファースト・アルバム。
 懐かしのディスコ・ヒットの曲がよくかかるインターFMの某番組で、このグループの「クラッシュ・オン・ユー」というヒット曲を聴いて、気に入ったため、その曲が収録されているこのアルバムを中古で入手(日本では人気がないのか、すでに廃盤で、新品はどうやら入手できないようだ)。
 で、聴いたら、ことのほかアルバムとしてのクオリティが高くて、びっくり。良質なメロディのオンパレード。80年代特有のキーボードを多用したダンス・ポップに、骨太でいてメロウなブラック・ファンクが絶妙にブレンドされていて。
 上記の曲以外では、ルパート・ホムルズの「ユー・ガット・イット・オール」のカヴァーが白眉。当時12歳のエリザベスの歌声が、独特の艶と、可愛さと、色気があって、こたえられません。思うに、この声の魅力は、この時分だからこそ出せる「刹那的な味」でしょうね(ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックなんかも、そうで)。





脅迫状筆跡「別人」で新証拠=狭山事件再審請求審―東京高裁

 この狭山事件も、以前このブログでふれた名張毒ぶどう酒事件と同様、検察による証拠未開示が、長らく大きな問題となっていたのでした(ただし、2015年1月23日に開かれた三者(裁判官、検察官、弁護団)による第21回進行協議にて、東京高検が押収している、未開示証拠物を含めた証拠物の一覧表が提示されました)。
 こんかいの新証拠のまえから、捜査の焦点だった「手ぬぐいの数」に関して、濡れ衣を着せられた石川一雄さんにとって不利となるよう、捜査官かだれかが捏造をくわえていたことが判明したり(13年10月17日に弁護団が東京高裁に提出した捜査種類のなかの、手ぬぐいの数の表記の部分に工作の痕跡が見られることが、紫外線照射の鑑定の結果、あきらかとなりました)等、当時の捜査や裁判がいかにずさんなものであったかが、50年以上もの年月を経ることであきらかとなっていて……。冤罪問題は、けっして他人ごとではありません。
 こんどこそ、石川さんに無罪が言い渡されることを、心より願っております。


 周囲から隔絶された区画に、”生ける屍”の”ファミリー”が隠遁する屋敷がある。異形の”彼女たち”は、この屋敷の”秘密”を守るべく、いわば”本能”によって、屋敷への訪問客を誰かれなしに、殺す。そしてその屍を、「SUBRE」という特殊装置にかけることで、蘇生させ、”ファミリー”に引き入れるのだ。
 ただし、蘇生されたばかりの新顔の頭のなかは、”白紙”の状態で、生前の記憶をいっさい持たない。そのままでは、”ファミリー”にすることができないから、つぎに「MESS」というべつの特殊装置をもちいて、新顔を含めた”ファミリー”全員が、その装置にかかる。そうすることで、「むかしからずっと、みな、この屋敷の住人であった」という”擬似記憶”を、新顔を含めた”ファミリー”の”常識”として移植し、それまでの記憶を”リセット”する。このような一定の”手順”を経て、”彼女たち”は訪問客を殺しては仲間を増やしてゆくのである。
 そんなある日、この屋敷に、クリスティン・チェイスと名乗る女性があらわれた。この屋敷の”秘密”について、訳知り顔な彼女のことを、不審に思いつつも、結局いつもの”手順”で殺すことにし、そして仲間に引きずりこむ、いつもの”彼女たち”なのであった。
 ーーそのいっぽう、隣町では、クリスティン・ジョーダンという女性の周りで、猟奇的な連続殺人事件が発生していた。事件現場で目撃されていた、トレンチコートを羽織った不審な男の正体とは? そして、”生ける屍”たちと、連続殺人事件との驚くべき接点とは?

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 男爵ユーステス・ペンファーザー卿のもとに届けられた、小包。なかに入っていたのは、大手のチョコレート製造会社の新製品で、試食の感想を求める旨の手紙が同梱されていたが、この贈呈品はひょんなことから、卿のクラブの常連である実業家グレアム・ベンディックスの手に渡ることとなった。
 そして、悲劇は起きた。ベンディックス夫妻がチョコレートを試食したところ、たくさん食べた妻は死亡したが、夫は一命をとりとめた。
 警察の捜査で、くだんのチョコレートに青酸性の毒が混入されていたことが判明する。物的な手がかりは、その毒入りチョコレートの残りと、同梱の手紙と、包み紙の三つのみ。これらを頼りに、ロンドン警視庁首席警部のモレスビーは、まずチョコレート会社をおとずれるが、会社ではそもそも、その製品をつくっておらず、まして贈呈したことなどないという。そこで、あらたに動機面から検討を試みるも、夫妻を殺すことで利益を得る者を見つけだすことができず、ただちに捜査は暗礁に乗りあげた。
 かくして、モレズビーからバトンを渡されるかたちで、小説家兼しろうと探偵のロジャー・シェリンガムを会長とする、精鋭の<犯罪研究会>の面々が、この難事件の解決に挑むこととなったのだが……

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 英国出身のステラは、妊娠ちゅうに、シカゴのギャングの夫アルフォンソ(アル)・ケンドリックスから暴力を受け、からだや足に障害のある娘ドロレスを出産した。夫が長期刑で収監され、寄るべを失ったステラは、英国に帰国。その後、しばらくナイトクラブのダンサーとして糊口をしのいでいたが、ひょんなことから、娘ドロレスとの愛の交流をつづった<スウィートハート日記>が新聞に連載されるや、大衆からの熱い支持と、おびただしい共感を得ることに成功。爾来、ステラはテレビや舞台にも出演するなど、一躍人気女優エステラ・ドゥヴィーニュとしてスターダムにのし上がることとなった。
 栄耀栄華をきわめる彼女の未来は、順風満帆に思われた。だが、アルが心臓病をわずらったことで特赦を受け、出所したことから、事態は急変する。やがて、<日記>を読んだかれが、どうしても死ぬまえに娘と会いたいと、ドロレスが隠れ住むという、ウェールズの片田舎に建つ<ティ・カリアード>荘へ強行しておとずれたとき、怪事件が発生した。アルが心臓発作で急死し、その相棒のエルクは車のなかで射殺。そして足の不自由なドロレスは、失踪……。現場を捜査するトゥム・チャッキー警部は、ステラをはじめ事件関係者たちの証言に、当初からなにか釈然としないものを感じとるのだが……

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 あけましておめでとうございます。
 本年は、ダンカンバカヤローの精神で、がんばって更新していこうと思っております(とくに本格ミステリ)。
 よろしくお願いします。
再審棄却 第10次請求、名古屋高裁

「ずば抜けて不当」事実調べなく再審棄却

 元死刑囚の故・奥西勝さんが犯行可能とされた「10分間」の有無の問題。ぶどう酒に混入された毒物がニッカリンTか否かの問題(現場の飲み残しのぶどう酒(事件検体)と、ニッカリンTを混入したぶどう酒(対照検体)、それぞれを成分分析にかけた結果、後者からはたしかに、ニッカリンTに含まれるTriEPP(トリエチルピロホスフェート)が検出されたのに対し、前者からは検出されなかった。いいかえれば、ぶどう酒にニッカリンTを混入したという奥西さんの自白は虚偽だった可能性が高い)。一貫性のない検察の主張の問題。検察官による証拠隠し疑惑(王冠類の数の問題)。関係者の初期・供述調書が未開時の問題。そして「下山決定」(憲法31条の適正手続き違反、最高裁判例違反にあたる「不意打ち認定」をした)(2012年5月25日)の問題。

 そして、こんかいの高裁決定。

 江川さんの「裁判所の拒絶的な態度を感じる」というのは、うなずける話ですし、秋山弁護士の「結論ありきの不十分な決定」というのも、ごもっともで。もともと明確な証拠がなく、有罪とするには腑に落ちない点が多すぎる事件にもかかわらず、このような決定がまかり通っていることに、憤りと同時に、悲しさも感じます。「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則は、どこへ行ってしまったのか。現行制度の見なおしが必要と痛感するしだいです。