火に油だった日大ロング会見 “独裁者”意向を周囲が忖度…「最悪の危機対応」

 その会見のもようを、テレビで観ました。
 たしかに、「火に油だった」「最悪の危機対応」というのは、同感です。
 ただし、ぼくがちょっと気になったのは、

白髪司会者は日大広報部 会見紛糾「見てても見てなくてもいい」「しつこい!」

 そう、例の司会者と、報道陣との丁々発止としたやりとり。そのなかで、ただでさえ頑迷固陋なうえに、ある意味、売りことばに買いことばで頭に血がのぼって、園児レヴェルまたは小学生レヴェルの対応をしていた司会者に対して、これまた冷静さを失ったあまり、報道陣から笑い声が聞こえた場面がありましたが、あれも、このような場面においては、火に油をそそぐ結果の一因だったんじゃないか。「正義の側」が、えてして陥る隘路だーー
 ふと、そう思ってしまいました。


 第22回鮎川哲也賞受賞作の青崎有吾『体育館の殺人』(2012年)を読了。
 何年かまえに購入した文庫本でしたが、扉にあるあらすじに、「アニメオタク」の名探偵が出てくるということが記されていて、なんとなく忌避感がはたらいてしまい、いままで読むことができませんでした(笑)。
 で、読んだ感想。
 登場人物の数の多さといい、ロジックにこだわった謎とき過程といい、さらには幕間の「読者への挑戦」といい、なるほど「平成のエラリー・クイーン」という触れこみに、嘘偽りはありません。序盤からロジカルな推理、推理のたたみ掛けで、しかも伏線があちこちに埋めこまれた、クラシカルで重厚なプロットを呈しつつも、筆致がいまどき(?)のライトな学園ミステリふうのせいで、最後までスラスラと読まされてしまいました。探偵役がたびたび口にするアニメネタには、アニメに疎いぼくは、まったくといっていいほどついていけませんでしたが、それよりなによりも、本書の要諦である密室のなぞを、徹底的なロジックによって解きあかすというその姿勢に、好感が持てます。
 
 しかし、気になった点も、大きく分けてふたつあります。

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違和感だらけだった亀田興毅“引退試合”

 この奇妙な<ラストマッチ>、ひいては引退撤回の流れ。
 おおかた、世間的には、茶番。なんですが、ただすくなくとも当人は、いたって本気のようです。
 記者は、「(試合まえの長い期間における、肉体づくりの本気度からして)「もっと強くなれる」という気持ちが芽生えたとしても不思議ではない。(()内筆者)」「試合ではなく、公開スパーリングとなったことで不完全燃焼の思いが残り、決意が揺らいだのかもしれない。」ことから、「引退を撤回した亀田興の心情は理解できる」と書いています。
 
 でも、それは枝葉の問題であって、おそらく根はもっと深いところにあるんじゃないか、とぼくは疑っています。
 その根の深さゆえに、たとえ試合が、公開スパーリングじゃなく、公式試合として認められ、そしてポンサクレックに勝っていたとしても、おなじように亀田は、引退撤回していたんじゃないか(帝拳ジムの浜田代表の対応をみればわかるとおり、どちらにせよ、ロマゴンとの対戦が実現することはありえないでしょうが)。
 ようするに、江戸の仇を長崎で討っても、江戸で受けた屈辱感(過去)が消滅することは、けっしてないということです。そして、大昔の中国の偉いひとがいったそうですが、こうした過去に引きづられているひとの常として、隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望むことになる。いわば泥沼地獄です。
 もっとも、いまの亀田は、かつての天下睥睨の亀田とは大きくちがって、なによりも世間の目を気にするようになりましたので、ロマゴンとの対戦が実現不可と悟れば、そのまま(選手としては)やめるよりほかなくなるとは思うんですが。


 本書『探偵を捜せ!』(1948年)は、犯人捜しという従来のミステリの常識を打ちやぶった趣向で有名なパット・マガーの、『被害者を捜せ!』(46年)、『七人のおば』(47年)につづく、長編三作め。
 人里離れた山荘「漁網荘」で、病弱な資産家の夫を殺し、ついに金と自由を手に入れたかにみえた、元女優の妻マーゴット。だが、夫は殺される直前、妻のくわだてを阻止するべく、ロッキー・ロードスという名の探偵が、まもなくこの山荘にやってくることを告げていた。やがて山荘をおとずれた、四人の客。しかしそのなかに、ロードスという人物はいなかった。一方では、夫の不慮の死のまえに打ちひしがれる妻を懸命に演じつつも、他方ではだれが探偵なのか、必死に探りをいれる彼女だったが……

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 本書『七人のおば』(1947年)は、アメリカの女流本格推理作家、パット・マガーの長篇二作め(再読)。
 パット・マガーがえがいた本格もの(とりわけ、初期の長篇五作)は、俗に「変格」と呼ばれ、典型的なフーダニット(犯人捜し)ではなく、被害者や探偵、目撃者にむけられた「Who?」という意表をついた着想と結構で有名ですが、本書の眼目は、被害者捜しと犯人捜しの二点。結婚して、夫とともに英国で幸せに暮らすサリーのもとに、ニューヨークの友人からの手紙が届いた。その手紙には、驚くことに、サリーのおばが夫を毒殺したうえ、自殺したことが書かれていた。しかし、友人はサリーがそのことをすでに知っていると勘違いしているのか、彼女には七人のおばがいるにもかかわらず、手紙には肝心のなまえが記されていなかった。いったい、どのおばが夫を毒殺したというのか? 
 動揺を隠せないサリーに対し、やさしい夫のピーターは、おばたちと暮らした数年間に起こったことについて語ってくれたら、被害者と犯人の見当をつけてあげようと請けあうのだった……

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 本書『湖底のまつり』(1978年)は、泡坂妻夫さんの長篇三作めにあたります。
 謎ときミステリとしての技巧性や遊戯性が、前面に押しだされていた一作め『11枚のとらんぷ』と二作め『乱れからくり』(ともに長篇)とは趣きがことなり、開巻早々、あたかも繊手でつむがれたかのような、幻想性と文学性とに横溢した格調高い文章が目について、おや? となります。傷心旅行で、東北地方の山あいの村をおとずれた若い女性の、摩訶不思議な体験。ひょんなことから出会った村の若者、晃二との、一夜の情事。しかし、翌朝めざめると、かれがいない。探しまわったあげく、村人にかれのことを尋ねてみる。すると、かれは一ヶ月まえに毒殺されたと、告げられる……
 まるで彼女の視点のみが、紗幕で遮られているかのように、あるいは白昼夢をみているかのように、曖昧模糊としておぼろげな幻想的文学的世界。しかし、本書はもちろん、本格ミステリです。ただ、前述した二作品とは性質がことなり、物語の進行とともに、徐々にじょじょに、人間がたんねんに描かれてゆくにつれ、謎もまた徐々にじょじょに、解きほぐされてゆきます。つまり、解決篇で名探偵がこういうことだったんですよと、快刀乱麻を断つかのごとく一気呵成に解きあかす、といった古典的な探偵小説とは、そもそもタイプがことなるわけです。

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 知るひとぞ知る、西海岸ジャズ/フュージョンのキーボーディスト兼コンポーザー、ダン・シーゲルのフル・アルバム、三作め。1981年発表作。
 その翌年、記念すべき初のメジャー・レーベル、エレクトラへの移籍後、第一弾としてリリースされた四作め『ロスト・イン・メモリー』は、エイブラハム・ラボリエル(ベース)やラリー・カールトン(ギター)といった凄腕ミュージシャンが参加したことでも有名ですが、インディ・レーベル時代のこのアルバムは、意外と知られてないんじゃないでしょうか?(近年になって、ようやくCD化されたぐらいですし。もっとも、ぼくが所有しているのはLPのほうですが)
 
 こんにちにおけるスムース・ジャズの先駆けともいうべき、アルバム・ジャケットのように、さわやかでポップなメロディ満載の、耳にここち良いインストゥルメンタル・サウンド。おそらく、このアルバムが発売された当時においては(あるいはいまも?)、この種の音楽には付きものの、イージーリスニング的との批判もあったんじゃないかと思われますが(まだ、ぼくがオタマジャクシだったころのことです)、しかし、たとえイージーリスニング的であっても、いいものはいいんです。音楽は理屈ありきで聴くもんじゃない、ということを、このアルバムはいたってシンプルなかたちで、教えてくれます。
 こう暖かくなってくると、AORもいいけど、こういうフュージョンもいいよなあ。初期のT-スクェア(ジ・スクェア時代)なんかがお好きなひとも、ぜひ。




 本書『11枚のとらんぷ」(1976年)は、泡坂妻夫さんの記念すべき長篇ミステリ一作目め(再読)。アマチュアの奇術グループの発表会が喜劇調で展開されるなか、クライマックスの奇術プログラムで登場するはずの女性が忽然と消えたあげく、まったくべつの場所、すなわち自室で変死体となって発見されるという、じっさいに奇術師としても著名な作者の経験がフルにいかされた、闊達自在で、たいへんトリッキーな本格ミステリです。
 
 変死体と書きましたが、それは死体の謎だけにとどまらず、その死体の周りに、いわくありげに数々の品物が破壊された状態で発見されるからで、しかもそれら品物が、ことごとく、彼女の所属する奇術グループのリーダー的存在がかつて書いた短篇集「11枚のとらんぷ」にまつわるガジェットだったことが判明されるからで、ことここに至ることで、いっそう謎は不可解で、奇妙な様相を呈してゆきます。
 そして、さらに興味深いのが、それまでが第一部としたうえで、さきに言及した作中作の短篇集の顛末が、第三部の解決篇のまえに、第二部として挿入されていること。つごう十一もの奇術トリックが、それぞれショート・ショートで展開されますが、この部分に随所に埋めこまれた伏線は、のちにあきらかとなる意外性で横溢した結末に、いみじくもつながってゆきます。

 そして、なんといっても、第三部の解決篇。ここからが圧巻です。複雑怪奇なトリックの緻密さ(とりわけ、奇術的な既存トリックの組み合わせ、その使いかた)、その演繹的推理のロジカルな冴え(用意周到な伏線のかずかずをたぐり寄せる、その華麗なる手筋)、その犯行動機のとびっきりの意外性(正道と邪道との狭間を綱渡りしているかのような、揺曳としてすこぶる妖しく、それでいてなお、普遍的な心理の深奥をきわめ、浮かび上がってくる、奇術師のうら哀しき末路)。めくるめく意外性に魅惑されること必定です。
 しかも凄いのが、おしなべて、とことん奇をてらいながらも、ハウダニット、フーダニット、ホワイダニットの三つの要素が、まさしく鼎構造にあって、密接不可分なんです。「木の葉は森に隠せ」の人口に膾炙した論理がありますが、泡坂さんはその思想をじつに巧みに、かつ華麗に、かくも怪しげに蕩揺する奇術ミステリに取りいれているのです。「トリックの『本格』」の、金字塔的な作品だと思います。


 ドゥービー・ブラザーズの元ヴォーカル、マイケル・マクドナルドのソロ・アルバムの一作め(1982年)。
 AORの、いわずと知れた名盤ちゅうの名盤ですね。プロデューサーが、テッド・テンプルマン。参加ミュージシャンが、ジェフ・ポーカロ、スティーヴ・ルカサーなどTOTOのメンバー、スティーヴ・ガッド、ポウリーニョ・ダ・コスタ、グレッグ・フィリンゲインズ、マイケル・ボディッカー、ケニー・ロギンス、クリストファー・クロスなどなど、錚々たる顔ぶれ。そんなかれらに支えられ、そのルックスじたいがまさにAORな(?)マクドナルドが、男の色気たっぷりなハスキー・ヴォイスで、情感たっぷりに唄いあげていて、もう最高です。
 ……こう暖かくなってくると、このマクドナルドとか、クリストファー・クロスとか、ジェイ・グレイドンとか、デイヴィッド・フォスターとか、ビル・ラバウンティとか、ペイジズなどといった、古きよきAORが、無性に聴きたくなってくるんだよなあ。




 外見は二枚目だが、所作が三枚目という、ちぐはぐな学術系カメラマン、亜愛一郎(あ・あいいちろう)のふしぎな探偵譚をえがいたシリーズの二作めにあたる短篇集『亜愛一郎の転倒』(1982年)(再読)。
 エラリー・クイーンの『冒険』『新冒険』を彷彿とさせる作品があったり(「第一話 藁の猫」、「第二話 砂蛾家の消失」)、横溝正史を連想させる見立て殺人を扱った作品があったり(「第四話 意外な遺骸」)、「日常の謎」ミステリの先駆けのような作品があったり(「第六話 争う四巨頭」)、ディクスン・カーを彷彿とさせる不可能犯罪を扱った作品があったり(「第七話 三郎町路上」、「第八話 病人に刃物」)と、シリーズ一作めと同様、ヴァリエーションに富んでいて、かなり読みごたえがあります。もちろん、チェスタトンばりの逆説も、健在です。
 チェスタトンの逆説、クイーンのロジック、カーのトリック。こうしてみると、おもに黄金時代のご三家の特徴を、自家薬籠ちゅうのものとしていることがわかるのですが、しかし泡坂ミステリは、それだけにとどまりません。
 
 ともすれば、奇術的でトリッキーな意匠に、ぼくたち読者は目を奪われがちなのですが、でもじつは、このシリーズをはじめ泡坂ミステリに通底するのは、<人間存在>にむけられた、普遍的というべき謎ではないでしょうか? 常識とか既成道徳では推量することができない、人間という奇妙な生き物がしばしば見せる、奇行の数々。でもそれら奇行も解きあかされると、ちょっとひとごととは思えないような動機に裏づけられていたことがわかって、はしなくもドキリとさせられる。本書でもそうなのですが、泡坂さんの作品を読んでいると、そういう思いにかられることが、よくあるんです。「狂人の論理」というのは、もはや禁句かもしれませんが、つまり泡坂さんのミステリ観とは、いわゆる普通人と、いわゆる狂人のボーダーラインを反故にしかねないような、少々大げさないいかたをすれば、「魑魅魍魎」が遍在する、異様なようでじつは普遍的な世界観、ないしは人間心理の追求だったのかなと、ふと思ってしまいました。ともかく、さきにあげたご三家よりも、人間にむけられた「なぜ?」に、泡坂さんは意識的で、興味深いです。