江戸川乱歩が大絶賛した『赤毛のレドメイン家』(一九二二年)の作者イーデン・フィルポッツの『だれがコマドリを殺したのか?』(二四年)の新訳版を読了。
 眉目秀麗の医師ノートンは、海岸遊歩道で見かけた容姿端麗の娘、<コマドリ>というあだ名を持つダイアナに、一目ぼれする。ノートンは一念発起し、支配欲の強いおじの莫大な遺産を相続する権利を放棄するリスクを抱えてでも、ダイアナとの炎のような純愛に身を投じることを選ぶ。そのさきに、悲劇が待ち受けているとは知るよしもなく……

 フィルポッツが得意とする恋愛メロドラマに、盲点を突くようなシニカルな仕掛けが織りこまれた探偵小説。謎ときの興味は、作品タイトルが示すとおり、<コマドリ>ことダイアナを殺したのはだれなのか?
 シンプルな仕掛けに支えられた、シンプル結構なんですが、精緻をきわめた人物造形と背景描写、サスペンスの盛り上げかたがじょうずなので、着地がたいへんトリッキーに決まっている。意表をついたフーダニットもさることながら、ことにそれに付随するホワイダニット、つまり動機の問題にともなう読後感は、善と悪の通俗的な対比では咀嚼できないような含蓄にあふれていて、深く考えさせられるものがあります。

- more -



 アメリカの女性推理作家ヘレン・マクロイのベイジル・ウィリング博士シリーズの第七長篇『逃げる幻』(一九四五年)を読了。

 第二次世界大戦をたくみに本書の時代背景としている点で、つまり(当時としての)「いま」を本格ミステリの形式に昇華している点で、同シリーズの前作『小鬼の市』(四三年)の延長線上にある意欲作です。
 山と谷に囲まれたスコットランドのハイランド地方を背景に、ひらけた荒野(ムア)から忽然と消えた少年。どこから見ても申しぶんのない環境下にある少年はなぜ、なんども家出をくり返すのか? これが本書のおもな謎ときのテーマ。
 のちの展開では、それから派生的にダイイング・メッセージと、密室殺人の謎も生じるんですが、なかでも興味深いのは、人間消失と密室殺人の処理のしかた。ふつう、どちらの謎も「どのようになされたのか」のハウダニットがおもな読みどころとなるはずですが、本書はさにあらず。デリケートな部分ですので、詳しくは触れませんが、とにかくこれ見よがしなトリックは、ここではもちいられていません。あくまでも犯人の意外性を中心にすえた、ミスディレクション重視のプロットを引き立てるための手段としてもちいられているのがミソ。

 ミスディレクション。そう、本書の凄みはミスディレクションです。語り手がウィリングでない(けれども、ウィリングとおなじく精神科医をなりわいとしているというところが、ある意味、皮肉な点でもあるんですが)ことからしてそうなんですが、それだけではありません。というのも、本書の裏テーマは<先入観>といえ、じっさい、本書では開巻早々から終盤にいたるまで、その<先入観>がさまざまな会話のなかに、たびたびとり上げられている。さりげなくも大胆に。それも、山と谷に囲まれた本書の舞台で、あたかもそれがこだましているかのように感じられるほど、自然なかたちで。そして、そういった作者のたくみな筆致、テクニックが、大戦、とりわけ欧州戦線における終戦直後という時代背景と有機的に溶けこんで、トリッキーでありながらも、一読忘れがたい余韻をのこす哀しき本格ミステリ(それは、一種の「陸の孤島」ミステリといえましょう)として、みごと仕上がっている。同シリーズ第三長篇『ささやく真実』(四一年)の解説で、若林踏さんがいみじくも「ヘレン・マクロイは「割り算と剰余の文学」を極めた人である」と書いていましたが、とりわけ本書の「剰余」は凄まじいものがあると思います。これまた傑作ですね。


 アメリカの女性推理作家ヘレン・マクロイのベイジル・ウィリング博士シリーズの第六長篇『小鬼の市』(一九四三年)を読了。

 いやあ、凄い作品です。スパイ小説と本格謎ときミステリとが、みごと架橋されています。
 第二次大戦下のカリブの島国を舞台に、アメリカと敵対するドイツ、そして(タテマエでは)中立国スペインのスパイが、不審死をとげたアメリカの報道機関の支局長がのこした手がかり(暗号がちりばめられた本社宛ての電文、そして謎のことば「ゴブリン・マーケット」)をめぐって暗躍するさまが、サスペンスフルに展開。被害者の後釜にすわった謎めいたアメリカ人の主人公フィリップ・スタークと、勝気な女性特派員ミッチや、ミステリアスな現地の警察官ミゲル・ウリサール警部など、一癖も二癖もあるキャラクターたちの軽妙な、それでいて緊迫感にあふれた駆け引き、暗号解読の興趣、不審死をとげた記者がのこした手がかりを究明するスタークにふりかかる危機のかずかず、唐突なドイツの潜水艦攻撃など、息つくひまもないその結構は、幾何級数的なおもしろさ。

 とくに興味深いのが、その卓抜なスパイ小説的なサスペンスの効用です。たとえば、典型的な本格ミステリではよく、不可欠な要素として、発端の怪奇性(意外性)、中段のサスペンス、解決の意外な合理性、と三つにわけて挙げられますが、本書のばあいはその必要がありません。発端の怪奇性はともかく、サスペンスは中段どころか、解決篇に該当する探偵役による推理パートにまで浸潤し(その結果、みごとな推理を披瀝しているさなかの探偵役が、一転してある危機に陥ったりしている)、そこで探偵役によって意外な合理性が示され、犯人が特定されてもなお、幕引きが依然として不透明で、それこそ最後の最後まで予断を許さないという独特の筋立てになっているからです。
 
 もちろん、スパイの暗躍する大戦下、そして土着的な風習がのこるカリブの島国といった舞台の特徴をぞんぶんに生かしたツイストの利いた構成もおみごとですし、濃密な人間描写、描きわけが、犯人特定の重要な手がかりとなっているところも、マクロイならではの興趣に満ちみちている。
 そうか、こんなのも書けたのか。マクロイおそるべし! です。


 アメリカの女性推理作家ヘレン・マクロイの『家蠅とカナリア』(一九四二年)を読了。心理学的分析を持ち味とするベイジル・ウィリング博士の探偵譚をえがいたシリーズの第五長篇にあたります。
 
 本書はマクロイの代表作のひとつで、大戦下の劇場が事件の舞台、それも観客の面前で殺人がなされる、しかも容疑者は三人……という、大胆不敵でケレン味で横溢した劇場ミステリです。
 フーダニット(犯人当て)が謎ときの主要ポイントで、なんといっても、探偵小説マニアのあいだで語り草(?)となっている、一匹の家蠅と一羽のカナリアという突飛な手がかりによって犯人が特定されるという趣向が、独創的ですばらしい。
 でも、ぼくがそれよりもむしろ感心させられたのは、なぜ犯人は殺人を犯したのか? のホワイダニットの処理のしかた。ことに伏線が、一見なにげない言動のなかに複数、さりげなくも大胆に潜まされていて、該当箇所を読み返すと、あまりに微妙な部分での表現方法の巧妙さに、背筋がゾクゾクするような興奮をおぼえるほどです。
 
 しかし、それよりなにより本書が凄いと思うのは、演劇人たちのありようの個性的で、かつ精緻をきわめたマクロイの群像描写が、そのまま、この独創的な謎ときミステリの屋台骨となっているところです。つまり、ロジックよりもむしろプロット、そも劇場ミステリとしての完成度が、きわめて高いんです。じっさい、登場するキャラクターというキャラクターが、主要なのから端役にいたるまで、ことごとく個性的かつ魅力的で、印象に残るほどです。それはもはや、たんに主要キャラクターたちがおりなす舞台でくりひろげられる殺人劇、という次元を超越している。この作品じたいが舞台としてみごと成立していて、観客はこの作品の読者にほかならないんです。マクロイの筆力が冴え渡っている傑作です。


 アメリカの女流本格推理作家ヘレン・マクロイの第三長篇で、精神科医探偵ベイジル・ウィリング博士が登場するシリーズの三作めにあたる『ささやく真実』(1941年)を読了。
 後年、『ひとりで歩く女』(48年)や『殺す者と殺される者』(57年)など、サスペンスの傑作を多く手がけたマクロイですが、初期に書かれた作品では、純度の高い様式的な本格推理に挑戦していました。とりわけ本書は、マクロイの全作品ちゅう屈指の本格度を誇る作品として誉れ高く、事実、縦横にはりめぐらされた伏線と手がかりを駆使し、唯一無二の意外な犯人を照射するという、シンプルなプロットながら、無駄がなくディテールの詰まった、至高のフーダニットに仕上がっています。

 のみならず、このころからサスペンス性もじゅうぶん発揮されている。強力な自白作用がある怪しい薬を登場させ、それを自宅で開かれたパーティで悪用する富豪の美女クローディアと、その薬が原因で起きた悪夢的な暴露大会の被害者たちの構図が生みだす不穏なサスペンスが序盤から展開され、複雑な人間描写および心理描写に長けるマクロイのストーリーテラーぶりに舌を巻きます。しかも、事件発覚後、暴露大会の内容をあかすことを頑なに拒む、一癖も二癖もある登場人物たちがおりなす小サークルと、クールでスタイリッシュな精神科医探偵ウィリングの対峙のさせかたにも、マクロイは配慮が行き届いていて、それがレッド・へリングの操作、ひいてはラストの意外な犯人指摘の演出にいみじくも収束している。さらにいえば、ラスト一行の、どこか割り切れない、哀切をおびた犯人の独白の余韻。辛辣かつ犀利な人間観察に裏うちされた一筋縄ではいかない人間ドラマと、明朗な謎解きパズルのみごとな融合。こういう絶妙なバランス感覚は、マクロイならではと思わせてくれる秀作です。


 本業が大学教授に、アマチュア演劇の舞台演出、それから趣味が手品で、マジックの入門書も手がけていたというへイク・タルボットの賭博師探偵ローガン・キンケイドものの第二長篇『魔の淵』(一九四四年)を読了。
 英国の密室研究家ロバート・エイディーが「カーに匹敵する唯一の密室長篇をものした作家」と、このタルボットを絶賛。さらに、エドワード・D・ホックがアンソロジー『密室大集合』(一九八一年)を編むときにおこなったアンケートで、この『魔の淵』が不可能犯罪を扱ったベスト長篇の第二位に輝いた(なお、第一位がカーの『三つの棺』)という、知るひとぞ知る名作です。

- more -



 江戸川乱歩が大絶賛した『赤毛のレドメイン家』(一九二二年)の著者イーデン・フィルポッツの第三長篇『闇からの声』(二五年)を読了。
 犯人は当初よりわかっているが、証拠がない。その証拠探しに力点が置かれた探偵小説です。
 イギルスのあるホテルの一室で夜、幼児の幽霊のものとおぼしき痛切な叫びを耳にした元刑事の名探偵ジョン・リングローズが、その不可思議なできごとから現実に起きた犯罪の匂いを嗅ぎとるという奇抜な発端が印象的ですが、本筋とはあまり関係がありません。本筋は、ながらく「足の探偵」(おおむね)リングローズの地道な潜入捜査が展開されます。
 
 いっけんクロフツを連想させる壮大な(舞台が、イギリスからイタリアに移る場面がある)、しかし地道かつ冗長な捜査がつづくため、いまの読者はなかなかついていけないかもしれません(笑)。ただクロフツとはちがって、フィルポッツは性格描写を濃密にえがくため(リングローズもただの「足の探偵」ではなく、けっこうエキセントリックな性格の持ち主としてえがかれている)、それが犯罪心理サスペンスと呼ぶべき大筋に、ひとかたならぬ起伏をあたえて盛り上げています。なかんずく、終盤の名探偵と犯人のスタティックな心理戦。現代の感覚からすれば、凡庸なかたちで収斂するため、大したことがないかもしれません。ただ、その結末にいたるまでの過程は、けっこう侮れません。つまり懸命に自己を律し、平然を装いながら、そのじつ懸命に腹の探り合いをひそかに展開する両者が、たがいの一挙手一投足に気を配りつつも、どうにかこうにか勝利の端緒を見いだそうとする展開は、いま読んでもなかなかに刺激的で、読ませてくれます。

 ちなみに、ドロシー・L・セイヤーズのピーター・ウィムジイ卿シリーズの第三長篇『不自然な死』(二七年)は、けだし本書の換骨奪胎でしょう。


 アイルランド生まれのイギリスの詩人・推理作家、ニコラス・ブレイクの第二長篇、『死の殻』(1936)を読了。
 本書の表紙や序盤の展開から、たんなる雪の足跡をめぐる謎解きと思っていたら、みごとに裏切られました。もちろん、良い意味で。
 雪の足跡トリック、いやはや、それどころではありませんでした。そうした表面的な謎の内奥に、よもやこのような<心理の足跡>をめぐる複雑怪奇で、奥の深い謎解きが待っていようとは。
 
 ブレイク作品のほとんどに登場する探偵役ナイジェル・ストレンジウェイズの、物的証拠よりも人間心理、性格を重視する卓抜な探偵法。これは、心理的探偵小説を提唱したアントニイ・バークリーの影響を強く感じさせますが(ついでにいえば、ラストであかされるシニカルな探偵の立ち位置にも、バークリーの影響がみられます)、じっさい、各登場人物の性格傾向やなにげない言動を渉猟し(じっさい、伏線が膨大です)、<心理の足跡>の謎を解きあかすための手がかりとするナイジェルのあざやかな手ぎわといい、ラストの二章で展開される二段構えの畳み掛けるような推理といい、本書はみごとな心理的探偵小説のお手本といえましょう。
 
 さらに特筆すべきは、本書がみごとな心理的探偵小説であると同時に、みごとな文学的探偵小説でもあること。作者が文学畑出身だから当然かもしれませんが、驚くことにそうした文学性が、本書で展開される殺人事件とみごと有機的に溶けこんでいる。本書で展開される第一の殺人、第二の殺人それぞれにおいて、犯行方法とその方法を選択した犯人の秘められた動機とが、ある文学作品を介して、ため息が出るくらいに美しい(でも、いびつな)詩的共鳴性をともなって、不可分に結びつけられている。「死の殻」というタイトルは、まさに正鵠を射ています。

 そのほかにも、ルシーラのメモの「転用」など、こまかな部分でのテクニックも光る、逸品です。
井上尚弥 秒殺!70秒KO勝ちでWBSS初戦突破 元WBAスーパー王者を撃破

 井上が勝つとは思っていたけど、百戦錬磨のパヤノに対してこの勝ちかたは、やっぱ度肝を抜かれた。

 井上尚弥の次戦・準決勝は来春海外開催か「ロドリゲスと戦いたい」

 井上の次戦・準決勝戦の有力候補、エマニュエル・ロドリゲス(プエルトリコ)は、アマ時代、2010年にバクーで開催された世界ユース選手権で銀メダル、また同年シンガポールで開催されたユースオリンピックでは金メダルを獲得した元アマエリート。玄人筋からの評判も良いテクニシャンです。
 ……でも、ロドリゲスでも勝てんぞ、きっと(井上が空回りさせられる、想像がまるでつかない)。
 


 本書『ロジャー・シェリンガムとヴェインの謎』(一九二七年)は、しろうと探偵ロジャー・シェリンガム・シリーズの長篇三作め。
 あやまちを犯さない神のごとき名探偵、そんな名探偵の引き立て役にすぎないアホな警察官、そして名探偵による唯一無二の推理ひいては解決。同シリーズ一作め『レイトン・コートの謎』の序文にも示されていましたが、本書は、良くも悪くも、このような従来の探偵小説が内包する「不自然さ」にたいするバークリーの先鋭的な批評精神が、もっともシンプルでわかりやすい形で示された、探偵小説のパロディとしてのメルクマール的な作品です。
 とりわけ興味深いのが、前作『ウィッチフォード毒殺事件』(二六年)の序文でも示された、動機重視で心理学に重点を置いた探偵小説の追求という実験的姿勢が、本書の目玉といえる「しろうと探偵と警察官の推理対決」を経由して、作者の駒にすぎない無味乾燥としたキャラクターで織りなされる従来型の探偵小説批判、かてて加えて、そのアンチテーゼとしてほかならぬ作者が提唱した心理学を駆使した探偵法にたいする自己批判をも織りこんだ、じつにアイロニカルな結末を編みだすことで昇華されている点。これが本書の読みどころなんですが……

- more -