本書『湖底のまつり』(1978年)は、泡坂妻夫さんの長篇三作めにあたります。
 謎ときミステリとしての技巧性や遊戯性が、前面に押しだされていた一作め『11枚のとらんぷ』と二作め『乱れからくり』(ともに長篇)とは趣きがことなり、開巻早々、あたかも繊手でつむがれたかのような、幻想性と文学性とに横溢した格調高い文章が目について、おや? となります。傷心旅行で、東北地方の山あいの村をおとずれた若い女性の、摩訶不思議な体験。ひょんなことから出会った村の若者、晃二との、一夜の情事。しかし、翌朝めざめると、かれがいない。探しまわったあげく、村人にかれのことを尋ねてみる。すると、かれは一ヶ月まえに毒殺されたと、告げられる……
 まるで彼女の視点のみが、紗幕で遮られているかのように、あるいは白昼夢をみているかのように、曖昧模糊としておぼろげな幻想的文学的世界。しかし、本書はもちろん、本格ミステリです。ただ、前述した二作品とは性質がことなり、物語の進行とともに、徐々にじょじょに、人間がたんねんに描かれてゆくにつれ、謎もまた徐々にじょじょに、解きほぐされてゆきます。つまり、解決篇で名探偵がこういうことだったんですよと、快刀乱麻を断つかのごとく一気呵成に解きあかす、といった古典的な探偵小説とは、そもそもタイプがことなるわけです。

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 知るひとぞ知る、西海岸ジャズ/フュージョンのキーボーディスト兼コンポーザー、ダン・シーゲルのフル・アルバム、三作め。1981年発表作。
 その翌年、記念すべき初のメジャー・レーベル、エレクトラへの移籍後、第一弾としてリリースされた四作め『ロスト・イン・メモリー』は、エイブラハム・ラボリエル(ベース)やラリー・カールトン(ギター)といった凄腕ミュージシャンが参加したことでも有名ですが、インディ・レーベル時代のこのアルバムは、意外と知られてないんじゃないでしょうか?(近年になって、ようやくCD化されたぐらいですし。もっとも、ぼくが所有しているのはLPのほうですが)
 
 こんにちにおけるスムース・ジャズの先駆けともいうべき、アルバム・ジャケットのように、さわやかでポップなメロディ満載の、耳にここち良いインストゥルメンタル・サウンド。おそらく、このアルバムが発売された当時においては(あるいはいまも?)、この種の音楽には付きものの、イージーリスニング的との批判もあったんじゃないかと思われますが(まだ、ぼくがオタマジャクシだったころのことです)、しかし、たとえイージーリスニング的であっても、いいものはいいんです。音楽は理屈ありきで聴くもんじゃない、ということを、このアルバムはいたってシンプルなかたちで、教えてくれます。
 こう暖かくなってくると、AORもいいけど、こういうフュージョンもいいよなあ。初期のT-スクェア(ジ・スクェア時代)なんかがお好きなひとも、ぜひ。




 本書『11枚のとらんぷ」(1976年)は、泡坂妻夫さんの記念すべき長篇ミステリ一作目め(再読)。アマチュアの奇術グループの発表会が喜劇調で展開されるなか、クライマックスの奇術プログラムで登場するはずの女性が忽然と消えたあげく、まったくべつの場所、すなわち自室で変死体となって発見されるという、じっさいに奇術師としても著名な作者の経験がフルにいかされた、闊達自在で、たいへんトリッキーな本格ミステリです。
 
 変死体と書きましたが、それは死体の謎だけにとどまらず、その死体の周りに、いわくありげに数々の品物が破壊された状態で発見されるからで、しかもそれら品物が、ことごとく、彼女の所属する奇術グループのリーダー的存在がかつて書いた短篇集「11枚のとらんぷ」にまつわるガジェットだったことが判明されるからで、ことここに至ることで、いっそう謎は不可解で、奇妙な様相を呈してゆきます。
 そして、さらに興味深いのが、それまでが第一部としたうえで、さきに言及した作中作の短篇集の顛末が、第三部の解決篇のまえに、第二部として挿入されていること。つごう十一もの奇術トリックが、それぞれショート・ショートで展開されますが、この部分に随所に埋めこまれた伏線は、のちにあきらかとなる意外性で横溢した結末に、いみじくもつながってゆきます。

 そして、なんといっても、第三部の解決篇。ここからが圧巻です。複雑怪奇なトリックの緻密さ(とりわけ、奇術的な既存トリックの組み合わせ、その使いかた)、その演繹的推理のロジカルな冴え(用意周到な伏線のかずかずをたぐり寄せる、その華麗なる手筋)、その犯行動機のとびっきりの意外性(正道と邪道との狭間を綱渡りしているかのような、揺曳としてすこぶる妖しく、それでいてなお、普遍的な心理の深奥をきわめ、浮かび上がってくる、奇術師のうら哀しき末路)。めくるめく意外性に魅惑されること必定です。
 しかも凄いのが、おしなべて、とことん奇をてらいながらも、ハウダニット、フーダニット、ホワイダニットの三つの要素が、まさしく鼎構造にあって、密接不可分なんです。「木の葉は森に隠せ」の人口に膾炙した論理がありますが、泡坂さんはその思想をじつに巧みに、かつ華麗に、かくも怪しげに蕩揺する奇術ミステリに取りいれているのです。「トリックの『本格』」の、金字塔的な作品だと思います。


 ドゥービー・ブラザーズの元ヴォーカル、マイケル・マクドナルドのソロ・アルバムの一作め(1982年)。
 AORの、いわずと知れた名盤ちゅうの名盤ですね。プロデューサーが、テッド・テンプルマン。参加ミュージシャンが、ジェフ・ポーカロ、スティーヴ・ルカサーなどTOTOのメンバー、スティーヴ・ガッド、ポウリーニョ・ダ・コスタ、グレッグ・フィリンゲインズ、マイケル・ボディッカー、ケニー・ロギンス、クリストファー・クロスなどなど、錚々たる顔ぶれ。そんなかれらに支えられ、そのルックスじたいがまさにAORな(?)マクドナルドが、男の色気たっぷりなハスキー・ヴォイスで、情感たっぷりに唄いあげていて、もう最高です。
 ……こう暖かくなってくると、このマクドナルドとか、クリストファー・クロスとか、ジェイ・グレイドンとか、デイヴィッド・フォスターとか、ビル・ラバウンティとか、ペイジズなどといった、古きよきAORが、無性に聴きたくなってくるんだよなあ。




 外見は二枚目だが、所作が三枚目という、ちぐはぐな学術系カメラマン、亜愛一郎(あ・あいいちろう)のふしぎな探偵譚をえがいたシリーズの二作めにあたる短篇集『亜愛一郎の転倒』(1982年)(再読)。
 エラリー・クイーンの『冒険』『新冒険』を彷彿とさせる作品があったり(「第一話 藁の猫」、「第二話 砂蛾家の消失」)、横溝正史を連想させる見立て殺人を扱った作品があったり(「第四話 意外な遺骸」)、「日常の謎」ミステリの先駆けのような作品があったり(「第六話 争う四巨頭」)、ディクスン・カーを彷彿とさせる不可能犯罪を扱った作品があったり(「第七話 三郎町路上」、「第八話 病人に刃物」)と、シリーズ一作めと同様、ヴァリエーションに富んでいて、かなり読みごたえがあります。もちろん、チェスタトンばりの逆説も、健在です。
 チェスタトンの逆説、クイーンのロジック、カーのトリック。こうしてみると、おもに黄金時代のご三家の特徴を、自家薬籠ちゅうのものとしていることがわかるのですが、しかし泡坂ミステリは、それだけにとどまりません。
 
 ともすれば、奇術的でトリッキーな意匠に、ぼくたち読者は目を奪われがちなのですが、でもじつは、このシリーズをはじめ泡坂ミステリに通底するのは、<人間存在>にむけられた、普遍的というべき謎ではないでしょうか? 常識とか既成道徳では推量することができない、人間という奇妙な生き物がしばしば見せる、奇行の数々。でもそれら奇行も解きあかされると、ちょっとひとごととは思えないような動機に裏づけられていたことがわかって、はしなくもドキリとさせられる。本書でもそうなのですが、泡坂さんの作品を読んでいると、そういう思いにかられることが、よくあるんです。「狂人の論理」というのは、もはや禁句かもしれませんが、つまり泡坂さんのミステリ観とは、いわゆる普通人と、いわゆる狂人のボーダーラインを反故にしかねないような、少々大げさないいかたをすれば、「魑魅魍魎」が遍在する、異様なようでじつは普遍的な世界観、ないしは人間心理の追求だったのかなと、ふと思ってしまいました。ともかく、さきにあげたご三家よりも、人間にむけられた「なぜ?」に、泡坂さんは意識的で、興味深いです。


 本書『複製症候群』(1997年)は、西澤保彦さんのノン・シリーズものとしては、七作めにあたる長篇ミステリ(再読)。
 とつじょ空から、虹色の壁(<ストロー>)が降りてきて、日常空間がとつぜん、外部から隔絶されたクローズド・サークルと化す。しかも、そのなぞの壁に触れたが最後、触れた者の<複製>ができ上がってしまうという、作者お得意のSF系本格です。
 日常空間がとつじょ、クローズド・サークル化してしまうという意表をついたアイディアがまず目を引きますが、ただこれはスマホなどの携帯電話が普及したいま読むと、作者が文庫版あとがきで言及しているように、やはり隔世の感があります。
 でも、その点を差しひいても、この作品はすごいと思います。 
 
 ひとつに、もし、ひとびとがコピー人間が簡単につくり出せてしまう異様なる環境に置かれたら? という思考実験を、ビターな味わいの青春群像を下敷きにして展開させるという手法が斬新で、じつは人間ならだれしもがもっている、いわゆる二面性というものを、内省的に、徹底して剔抉しています。オリジナルとコピーの関係について、コピーが生まれ落ちた時点でのオリジナルとコピーは、完全に同一だが、その後はまったくちがう人格となる運命にある、……だとか、コピー人間は「自分はコピーだが、でも同時に、『自分こそはオリジナル』」という主体性をも宿す運命にある、といったことを、作者が、コピー人間騒動の渦中にある語り手の男子高校生に悟らせていて、とにかくもう小説として、とても深いことを書いているわけです。

 それと、もうひとつに、そういった実験色の強い命題の青春小説がしかも、たくらみ(仕掛け)ありきのパズラーと、不可分な関係にあります。
 最終章の「幕間の病」にて、<ストロー>の内側と外側の境界線が消えたときにあきらかとなる、二重のサプライズ。はじめのサプライズは、初読時、もともと自分が「なぜ、『その可能性』について、登場人物たちはだれも論じないんだろう?」とかねてより考えていたことだったので、衝撃はあまりありませんでした。
 でも、そのあとの真のサプライズ、これにやられました。その仕掛けがあきらかにされることで、はじめて、コピー人間という命題をすえた、ビターな青春群像小説に仕立てあげた作者のほんとうの思わくが、その深謀遠慮が、鮮明に浮き上がってくるわけです。いいかえれば、この作品じたいが、むかしから使い古されてきた(ネタバレのため、反転) 「語り手が犯人」 (ここまで)トリックの進化型というべき卓抜かつ斬新な仕掛けと、「人間をえがき出す」という文学的行為が一体化した構造となっているわけで、これはほんとうに凄いことだと思うんです。
 西澤さんのSF系本格のなかでは、隠れた名作といえるのではないでしょうか。


 直木賞作家としても、それから石田天海賞受賞の奇術師としても有名な推理作家、泡坂妻夫さんの短篇集『亜愛一郎の狼狽』(1978年)(再読)。長身で容姿端麗ながら、運動神経はゼロに等しい、雲や虫や化石などを被写体とする学術系カメラマンという、たいへん個性的な(ひらたく言えば、とってもヘンな)名探偵・亜愛一郎(あ・あいいちろう)の摩訶不思議な探偵譚をえがいたシリーズの第一作です。
 このシリーズは、国産本格を代表する短篇集といっても過言ではない、名作ちゅうの名作で、ひさびさに読み返しましたが、いやあ、もう唸らされっぱなしでした。
 八篇と収録数が多めですが、ヴァリエーションが豊富なトリックといい、逆説を効果的に配した不思議なロジック(あるいはレトリック)といい、亜という得体のしれない名探偵のすぐれた造形(外見ではなく、内面的な意味で)といい、これぞまさしく独立不覊の泡坂ワールドという境地が確立されている。随所に、作者の該博な知識が各作品の質に貢献している点も、見逃せません。
 
 でも、なによりも特筆すべきは、その綺羅星のごとき膨大なかずの伏線でしょう。登場人物たちのパーソナリティ、一見どうということのない会話、事件の舞台、自然環境、小道具などなど、ほんとうにいたるところに、それが潜んでいる。再読のため、犯人やトリックなど、おおむねネタがわかっていても、いやむしろ、わかっているからこそ、こんかいは伏線にとくに集中して読むことができたので、そのことがよくわかるんです。どの作品も一見、おしなべて、石が流れて木の葉が沈むの転倒した作品世界や推理が、堂々と展開されているにもかかわらず、けっして荒唐無稽や牽強付会に堕すことがない。それは、作者によって幾重にもはりめぐらされた伏線芸の精華があるからにほかなりません。あるいは、それは、「彫琢」された荒唐無稽であり、また牽強付会であるともいえるかもしれませんが。とにかく、ほんとうに不思議な説得力をもった作品世界です。けだしそれには、「希硫酸の亜という字を書きます」(「第四話 掌上の黄金仮面」より)と口走ったり、「雪の降る中をワイシャツ姿で颯爽と歩」(「第五話 G線上の鼬」より)いたりする、亜愛一郎という奇抜しごくな名探偵のパーソナリティもまた、貢献しているでしょう。
 
 ところで、泡坂さんは、逆説を多用するため「日本のチェスタトン」と呼ばれた(あるいはいまも?)そうですが、逆説の面はいざ知らず、チェスタトンよりも泡坂さんのほうが、仕掛けの面で読者を徹底して瞞着してやろうという意識が強いですね。ともあれ、本書を読んで、上質の本格ものを編みだす源泉となるものは、稚気と、それから狂気だということ(つまりは、幻想と戯れること)を、再認識できました。
ボクシング】WBCがネリに無期限の出場停止処分

ネリのファイトマネー7割凍結、WBCから待った

 山中慎介との二戦において、ドーピング問題につづき、確信犯的な体重超過で、ボクシングを冒涜しまくったネリですから、当然の報いなんですが。
 それにしても、あのメキシカンに甘いことで有名なWBC(本部がメキシコにあり、会長がメキシコ人)が、とすこし驚きましたね。
 でも、こんご公聴会があって、そこでどのような結論が出るのか。それを思うと、やや不安でもありますが。前回のドーピング問題のあと行われた公聴会では、意図的摂取ではなかったとして不問に付されましたから。
保育園落ちてもいい」親たち。待機児童の一方で「不承諾通知」歓迎と内定辞退続出の訳

 ですから、けっきょくこれからの時代は、家庭での性別分業を弱めて、女性に任せっきりではなく、男性も育児に積極的に参加していかなければ、いけないと思うわけです。
 でもそのためには、正規労働者の労働時間短縮(欧米先進国とくらべると、残業時間を含めた日本の労働時間の規制はとても甘い)や、男性の育児休業取得率の上昇(政府や経営者団体が、男性が育児休業を取得できない、もしくは取得しづらい旧態依然とした職場環境の改善を、推進しなければならない)や、接待などの商慣行の改善(接待を担当する営業職は、男性が担当することが圧倒的に多い)などが、必要となるはずで。
 それからもちろん、保育サービスの充実もしかり。ほかの先進諸国とくらべると、日本は保育への公的支出が、とても少ないです(対GDP比)。


 本書『フレンチ警部最大の事件』(1925年)は、作者F・W・クロフツが生みだした唯一のシリーズ探偵・フレンチ警部が初登場する長篇ミステリです。
 宝石商の支配人を殺害した犯人と、それから、金庫から消えた三万三千ポンドのダイヤモンドのゆくえを追って、職業熱心なスコットランド・ヤードのフレンチ警部が、英仏横断、さらにはスイスやスペイン、ポルトガルといった西南ヨーロッパを舞台に、地道な足の捜査を繰り広げるのが、本書のおもだった特徴。
 事件の真相は、犯行方法にせよ犯行動機にせよ、明かされてみればいたって即物的で、単純明快なのですが、フレンチ警部が鋳型から抜け出せなくて、探偵としては凡庸であるがために、捜査の過程で大きなヘマをやらかしてしまうと。で、そのせいでかえって事件の様相を複雑かつ不可解なものにしてしまうという、クロフツ作品のお決まりのパターンです。ただ、それでもスパイ小説ふうの暗号解読のなぞが出てきたり、意外な安楽椅子探偵(?)の登場があったりと、質実剛健なクロフツなりに随所にくふうを凝らしているあたりが、本書のポイントといえそうです。また、西南ヨーロッパを列車で移動する場面が多く、ややもすればフレンチが風景に魅了される描写があるので、『スターヴェルの悲劇』(27年)の書評(追記)でも書きましたが、たしかにトラベル・ミステリとしての興趣がありますね。
 
 そういうわけで、展開がのろいのはイヤ、というかたには本書(というか、大半のクロフツ作品というか)はあまりオススメできません。……いや。思うに、探偵と犯人の攻防、そして、壮大な西南ヨーロッパという大舞台の、ふたつの要素によってもたらされる<相乗効果>、これがあるから、いちがいに断言できないところがあって。
 というのも、上述したように探偵が凡庸なため、一歩一歩、遅くても着実に犯人を追い詰めていくのですが、その過程において、ときどきヘマをやらかします。すると、それを知った犯人は、追い詰められながらも、逃亡のためにうまく利用してやろうと、ここを先途とたくらむわけです。そのように、一見のろい展開のなかにも、じつは「探偵vs犯人」の攻防がスタティック、かつリアルタイムで変化してゆくといった緊張感があるんです。それだけに、無駄骨おりの連続で、狡猾な犯人に振りまわされるばかりのフレンチの犯人逮捕への執念や気迫は、真に迫ったものであるし、同時にまた犯人にしても、万策を弄して、どうにかこうにか警察の手から逃れようとするそのありようが、真に迫っていて。
 ところでクロフツ作品は、一貫して「足の探偵」を採用することから「リアリズム推理小説」と呼ばれるのが一般的のようですが、ぼくにいわせれば、それは皮相的な見かたにすぎません。そうではなくて、じつは、探偵と犯人のいわば追いかけっこが、肉体的な意味でも心理的な意味でも、真に迫った描写がなされている(すくなくとも、事件のからくりが種あかしされたあとで、そのありようが、くっきりと浮かび上がってくる)。だからこそ「リアリズム推理小説」なんです。
 そういう意味では、これは社会派ミステリの源流ともいえるでしょう。