エコール・ド・パリ殺人事件 レザルティスト・モウディ (講談社ノベルス)エコール・ド・パリ殺人事件 レザルティスト・モウディ (講談社ノベルス)
(2008/02/08)
深水 黎一郎

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 モディリアーニやパスキン、ルソーなど、20世紀前半にパリを中心に活動していた国際色豊かな個性派芸術集団「エコール・ド・パリ」の画家たちに魅了され、その画家たちにまつわる著書をものしたこともある、銀座の有名画廊の経営者・暁宏之が、世田谷にある自宅の自室で変死体となって発見された。現場は、ドアと窓、それぞれ内側から厳重に施錠された完全な密室で、一見自殺のように見える。だが、窓のかんぬきにいわくありげに血が塗りつけられていたり、庭に何者かの足跡が残されていたりと、不審な点も多く見られた。
 この不可解な事件を担当する警視庁捜査一課十斑の海埜(うんの)警部は、根なし草で自由気ままな甥・神泉寺瞬一郎の助力を得ながら、被害者が書いたという美術評論書を手がかりに真相を究明する。
 二〇〇七年に『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』で第36回メフィスト賞を受賞し、デビューを飾った深水黎一郎氏の二作めである。デビュー作は、ある意味ややはったりじみた感じの一発ネタのトリックが斬新で強烈なインパクトを残す作品であったのだが、本書では逆に、きわめてオーソドックスな本格ミステリの結構でアピールしてきた。豪奢な邸宅で起きる資産家の変死、密室の謎、ひと癖もふた癖もある邸宅の人々、ニュートラルな立場を保った神泉寺瞬一郎という典型的な素人探偵、そして解決篇の手前で挿入される「読者への挑戦状」と、これぞ本格ミステリの王道! というべきガジェットで作品空間が彩られているのだ。そして、そのなかで、テーマである「エコール・ド・パリ」をめぐっての美術論の蘊蓄が、主に事件関係者と探偵役の神泉寺を通してあまねく語られていく。
 いっぽうで、そうした筋立ての合間合間に、被害者である暁宏之が書いたという設定の「エコール・ド・パリ」に関する美術書の抜粋(もちろんこれは深水氏のフィクションである)がいわくありげに再三にわたって挟みこまれている。あとがきで「仮にその架空の部分だけを抜き出しても、単独で存在価値のあるものにしなければ、面白くないと感じた」と書いてあるように、これがずいぶん凝ったつくりになっているのだが、じつはこの部分に、事件解決に必要となる伏線がびっしりと張りめぐらされているのである。そして、テーマである美術論と事件がもののみごと有機的に結びつく。それこそ、一+一=二と示すかのように、「エコール・ド・パリ」+殺人事件=『エコール・ド・パリ殺人事件』となる瞬間なのである。端正にしてまったく無駄がない、その構成。もしかりに、当初このごくごくシンプルなタイトルを見て、「味気ないタイトルだな。もっとくふうしろよ」と揶揄まじりに突っこみを入れていた読者がいたとしたら、ことここに至って、「なるほど、この内容なら、このタイトルにするよりほかないな」と考えを改めざるをえなくなること請け合いである。
 本格ミステリのオーソドックスな結構を遵守しながらも、ディレッタンティズムで染め上げることによって独自の境地を切り開いた野心作と評するのが妥当だろう。すでに上梓されている三作め『トスカの接吻』と四作め『花窗玻璃 シャガールの黙示』にも期待したい。
新参者新参者
(2009/09/18)
東野圭吾

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 本書『新参者』(〇九年)は、刑事・加賀恭一郎を主人公にすえたシリーズ八作めにして待望の最新作である。体裁は、いわゆる連作短編集であり、収録されている各短篇(九作品)は、初出時に、二〇〇四年八月号から二〇〇九年七月号までの長期にわたって「小説現代」誌にて不定期で掲載されたものである。
 内容はというと、「新参者」というタイトルが示すとおり、活動拠点を練馬署から日本橋署に移した着任したての加賀が、いまもなお江戸の風情を残す古き良き“人情の町”小伝馬町という、彼にとっては未知の土地で発生した殺人事件に対し、F・W・クロフツ作品や鮎川哲也作品の鬼貫警部シリーズさながら、いわば足を使って地道に捜査を続けていくことで真相に迫っていくという、リアリズムというか社会派の色彩を重視した推理小説である。
 日本橋小伝馬町の一角に建つマンションで、三井峯子という四十代女性の絞殺死体が発見された。被害者は交友関係が広くなく、ふだんつきあいのあった親しい人間はごくごく限られていた。また、被害者は温厚な人となりで知られており、被害者を知る周囲の人間の誰もが、彼女が人から恨みを買うことはありえないと断言する。だが、現場の状況は、強盗や強姦を目的とした犯行でないことを示していた。
 いったい彼女の身になにが起きたのか? 加賀は、真相を究明するべく、まずは昔ながらの小物問屋が軒を並べる下町で聞きこみを開始する――。
 本書でまず目を引くのは、加賀が個々の短篇で、基本的には事件の本筋と直接関係のないエピソードに首を突っこんでいる点だ。それどころか、個々の短篇は、事件の本筋とは直接関係のないエピソードでほぼ成り立っているとさえ言えるのである。それぞれの短篇で、事件の被害者である三井峯子のほかにクローズアップされる下町の人物が定められており、間接的に本筋と絡ませながら、その人物をとりまく職場事情や家庭事情にまつわる日常に埋没していたささやかな謎――いわば人情という謎を、加賀は積極的に解き明かしていき、それぞれに秘められた人情のドラマとそのなかに生きる人々の造形を鮮明に浮かび上がらせてみせるのだ。
 とはいえもちろん、連作という趣向を生かした全体のくふうが凝らされているのも見逃せない。一見それ自体が別種の推理小説あるいはドラマとして成立している短篇を追うごとに、じつは、それまでの短篇にさりげなく潜まされていた本筋の事件にかかわってくる伏線が巧みに、かつ、なしくずしに回収されていく。それに従って、物語がはじまる時点ですでにもの言わぬむくろと化している三井峯子の造形が、あたかも死という現実に逆行するかのように、じわりじわりと生気をおびて浮上してくるのだ。さらに最終章まで進めば、三井峯子の造形が本来の鮮明さを取り戻したのと同時に、おのずから犯人と犯行動機まで浮かび上がってくるさまを読者は見ることになるだろう。
 ところで、ふつう連作短篇集の趣向といえば、個々の短篇のクオリティを大切にしながら、それぞれの短篇に張りめぐらされていた伏線が最後の章に至ることではじめて回収されていき、それがそのまま意外な真相を浮かび上がらせるという、どんでん返しを重視したパターンが常道だろう。だが本書は、そうした常道とは一線を画している。まず、本書ではそもそも意外な真相というのがそれほど重視されていない。むしろ加賀よりも先に犯人や犯行動機を言い当てることもさほど難しくはないだろう。これはおそらく、作者が何よりも三井峯子をはじめとした小伝馬町に生きる人々の秘められた“情”を描くということを命題にしているからだろう。
 それから、個々の短篇どうしの結びつきがゆるいようでいてむしろ堅固である。それぞれが独自の人情のドラマに耽溺しているようなのに、偶然や誤解といった、そのなかに生きる人々の理解が及ぶよしもない不可知の領域で、この物語は微妙ながら密接に絡み合って一本の因果律を形成している。あたかも、作者が本書におけるドラマのつながりを、いみじくもドミノ倒しにたとえたように。あるいは、小伝馬町という下町に軒を連ねる、昔ながらの商工店のありさまのように。下町の商工店が軒を連ねているのは、その町に住む人々にとってはあまりにも当然の事象であるから、平素その密接なつながりを意識することはない。ところが、この町の新参者である加賀が、いざそれぞれののれんをくぐり、一見変化のない店内の光景にじっと目を凝らしてみると、じつは日常ならざる人情のドラマがそれぞれで展開されていたことに気づく。そして、そのそれぞれのドラマが、意外にも三井峯子というキーワードを拠点に、ちょうど軒を並べるかのように接近して建っていたことに気づく。――本書は、そんなたぐいの驚きを包みこんだ推理小説なのである。
 地上波で視聴。
 優勝はやはりと言うべきか、新星ジョルジオ・ペトロシアン。難なく優勝しちゃったね。あの打たれ強いことで有名な山本優弥を1ラウンドKO。そしてあのツータイムス・チャンピオンのアンディ・サワーになにもさせず判定勝ち。とんでもない選手を呼んじゃったね谷川さん(笑)。
 しかも、この記事によると、ノーダメージでサワー戦に臨んでいたように見えたペトロシアン、でもじつは山本戦で自分が放った攻撃で右手を負傷していたそうで。それでも危なげなくサワーを下したのだから、度肝を抜かれる。
 今年の大みそかの格闘技イベント「Dynamite」では、ペトロシアンと、その大会をもって引退する魔裟斗の試合が決定されたそうだけれど、さすがの魔裟斗もまったく穴が見えないペトロシアンが相手だと、分が悪いと言わざるをえない。すくなくとも、サワーに二敗している魔裟斗と、サワーに二勝しているペトロシアン――この対比をかんがみるのであれば、そう言わざるをえないだろう。さて、ペトロシアン戦に向けて魔裟斗がどう仕上げてくるか。試合が楽しみだ。
少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)
(2009/03/25)
桜庭 一樹

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 舞台は、北海道は旭川市の郊外の田舎町。「たいへん遺憾ながら、美しく生まれてしまった」物語の主人公・川村七竈(ななかまど)という一七歳の少女は、その美貌に惹かれ群がってくる男たちを軽蔑しながら、さらには、手当たりしだいに男をつくっては逐電(ちくでん)を繰り返す「いんらん」な母・優奈を――あるいは、かくも美しい自分を産みだしてしまった、美しくもなければ醜くもない、ごくごく平凡な容姿をもつ、けれど「いんらん」な母・優奈を――忌み嫌いながら、孤独な青春を送っていた。
 そんな七竈の心を許せる存在は、幼なじみの雪風という、彼女とよく似た風貌をもつ美少年と、鉄道模型だけであった。つめたくて、無骨で、愛想のない鉄道模型を囲んで、静謐とした彼とひっそりと戯れている、そのひと時が、唯一彼女の生きる「せかい」といってよかった。
 しかし、周囲の「可愛そうな大人」は、そんな七竈を決して放っておいてはくれない。母・優奈をはじめ、実父を名乗る東堂、芸能マネージャーを名乗る梅木など、「可愛そうな大人」たちは、まるで彼女のささやかな「せかい」に水を差すかのように、それぞれの思惑を彼女のもとに押しつけては、そのまま立ち去ってゆく。そのうち、雪風との関係性にも変化が生じていき、ふたりの心中とは裏腹に、閉じられた「せかい」に張りめぐらされた結界は、少しずつすこしずつ、薄まっていくのであった――。
 本書『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(〇六年」は、作者の出世作『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(〇四年)、それから『少女には向かない職業』(〇五年)に続いて刊行された文芸作品である。
 シュールなユーモアを間欠的に挟みつつも、閉ざされた環境に置かれた少女の苦しみと葛藤を哀切たっぷりに描く桜庭一樹特有の叙述法は本書でも健在だが、『砂糖菓子の〜』や『少女には〜』と相違するのは、確信的に子どもを脅かす「悪」の大人がいっさい登場しない点だろう。特別すぎるがゆえの不幸や後悔を抱える七竈や雪風、逆に特別でないがゆえの不幸や後悔を抱える七竈の後輩・緒方みすずといった子どもたちもさることながら、七竈の母・優奈や雪風の母・多岐、芸能マネージャーの梅木などといった大人たちの誰もが、やむにやむをえない不幸や後悔を抱えており、そうした負の感情をときに持て余しながら、またときに折り合いをつけながら「いま」を生きる、弱くて哀しい人間として描かれている。読者は、チャプターごとに切り替わる視点人物(ちなみに、そのなかには人でなく「ビショップ」という名の犬の一人称というか一匹称(というべきか?)も混じっているのだが、時間の流れかたが人間とは根本的にちがう、この犬のどこかのほほんとした「おれ」という一人称を挿入することで、作品世界にはびこる人間側の悲哀をいっそう効果的に演出しているのはみごとと言える)の一人称を通じて、まるで鉄道の車窓から時の移ろいとともに変化していく一連の情景を眺めるかのように、作中の一人物では拾いきれない、各々の人間の見えざる哀しき心象風景をまんべんなく拾っていくことになるのである。
 やがて終点にたどり着き、それぞれの見えざる心の「せかい」を旅する鉄道から降りたとき読者の心に残存しているのは、きっと、こちらの事情にはおかまいなく、まるで川の流れのように冷たく、そして淡々と流動しつづける時の流れのまにまに朽ちていくものに対する普遍的な愛惜だろう。人それぞれに生きかたや表現のしかた、時間の流れかたは相違する。ときとして、それらのちがいが嵩じて軋轢を生むこともあるだろう。けれども、忘れてはならないのは、じつは誰もが取り返しのつかない慙愧や後悔の念を多かれ少なかれ抱えつつ、それでも懸命に将来の夢や失われた過去に思いを馳せながら「いま」を辛うじて生きているということ。ましてや、そうした心のありかたは、普遍的であるがゆえに、子どもや大人、男や女、美貌や醜貌などといった安易な類型あるいは境界線にも根幹的には左右されないのである。
 北海道は旭川郊外の小さな田舎町を舞台に、どうしようもなく切なくはあるけれども、同時に、描かれる弱き人間たちをわがことのごとくいつくしむような、ほんわかとした優しさに満ちみちた物語として強く印象に残る秀作である。
ノー・ヒーローズノー・ヒーローズ
(2006/10/25)
コンヴァージ

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 アメリカはボストン出身のメタル/ハードコアバンド、コンヴァージの七枚めのアルバムを聴く。
 ぼくはかねてからこのバンドが好きで、アルバムが出るたびに購入していたクチだったのだけれど、でも六枚めのアルバム『ユー・フェイル・ミー』(〇四年)を購入して以降、このバンドからは遠ざかっていた。なんとなくこのバンドにマンネリのようなものを感じていたからだと思う。
 でも今回ひさしぶりに聴いて、ブッ飛ばされた。もちろん良い意味で。基本的には、メタルとハードコア、それぞれのよさを折衷させた混沌としたサウンドが彼らの特徴だと思うが、本作は基本路線をふまえながらも、どちらかと言えばハードコア寄りといった趣き。言い換えれば、メタルの計算しつくされた構築美よりはむしろ原始的な荒々しさにおもむくがままのハードコアスピリッツを優先させたって感じ。実際本作はライヴレコーディングで生みだされたそうだし。いずれにせよ、あらためてこのバンドのもつ破壊力と質のよさを痛感したしだい。
 最近リリースされたばかりの新作『アックス・トゥ・フォール』も買おう。

      
龍神の雨龍神の雨
(2009/05)
道尾 秀介

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 物語の主人公・添木田蓮は、中学三年生の妹・楓と、継父・睦夫の三人で暮らす一九歳のフリーターの少年。実の父は蓮が幼いころに女をつくって逐電(ちくでん)し、母は七か月前、自動車事故により他界した。母の死後、睦夫は人が変わり、酒量が増え、蓮や楓に暴力をふるうようになり、ついには勤めていた会社を辞めたあげく、自分の部屋に引きこもるようになった。蓮はそれゆえ、睦夫のかわりに生計を立てなくてはならず、大学にも通わず、日々酒屋でアルバイトをしているのだ。
 そんな彼は、ある日、楓がかねてより睦夫から性的な嫌がらせを受けていたことを知る。ついに堪忍袋の緒が切れた蓮は、楓には内密に、睦夫を不慮の事故に見せかけて殺そうと画策する。だが、睦夫の死は、彼の思いもよらないところから降ってくる。睦夫に強姦された楓が、勢いあまって睦夫を殺害してしまったのである――。
 転じて、もうひとりの主人公・溝田圭介は、中学二年生の兄・辰也と、継母・里江の三人で暮らす小学五年生の男の子。母は二年前、海水事故で他界し、父はその後すい臓がんで他界。以来、里江は家計を支えるべく働きに出る一方で、家事もこなし、辰也と圭介に不憫のないよう懸命に父と母の役割を一手に引き受けている。だが、辰也はそんな彼女をいっさい認めようとしなかった。そればかりか、わざと彼女に迷惑をかけて困らせようと、万引きなどの悪事に手を染めてさえいた。辰也は、二年前の母の死を、事故ではなく、母が存命のときから父に好意を寄せていた里江による他殺と考えており、彼女を相当憎んでいるからだ。
 そんな辰也とともに圭介が、夜、例によって例のごとし蓮が働く酒屋で万引きをした一件で、蓮が住むアパートに向かっていた、そのとき。はからずもふたりは、蓮と楓がアパートから死体とおぼしき物を運び出しているのを目撃する――。

 本書『龍神の雨』(〇九年)は、第140回直木賞候補、第30回吉川英治文学新人賞候補、第62回日本推理作家協会賞受賞作『カラスの親指』(〇八年)、第141回直木賞候補作『鬼の跫音』(〇九年)に続いて刊行された。初出は「小説新潮」〇八年四月号〜八月号連載。
 たとえば『片眼の猿』(同年)では「猿」というキーワードが、それから『カラスの親指』(〇八年)では「カラス」というキーワードが、それぞれ物語の中枢とミステリとしての仕掛けに密接にかかわっていたように、本書では、水の神と崇められる日本の「龍」をキーワードに、龍神伝説にまつわる挿話や手賀沼の「藤姫伝説」が、物語や謎解きパートと密接にかかわってくる。ちなみに、本書の全編を支配している「雨」という、一見小道具にしか映らないある種の舞台装置も、じつはその系譜にくみする重要な役割が与えられているのである。
 さらに物語とメインの仕掛けを劇的に演出しているのは、もはや作者のお家芸となりつつある人間の主観や幻想、誤認などを逆手にとったミスディレクションと、登場人物たちの一見なにげないやりとりから重要な局面にいたるまで縦横に仕掛けられたダブルミーニングといった、だましのテクニックである。いわくありげに合わせ鏡のごとく配置された蓮の三人称パートと、圭介の三人称パートの交互叙述形式も、どうやらそうした一連のたくらみに合わせて組みこまれているようだ。
 そしてその果てには、さながら、それまで確固と信じてやまなかった――というよりは、確固であることがあまりにも当然であり、それゆえ確固であることそれ自体すら意識の範疇になかった足元の地盤が、にもかかわらず、無慈悲なまでにばきばきと音を立てながら崩壊していくかのような度肝を抜く真相が待ちかまえている。とはいえ、『向日葵の咲かない夏』(〇五年)や『ラットマン』(〇八年)などと同様、物語の反転のさせかたにあざとさやくどさが感じられたり、終盤で「ある人物」に事件の真相をべらべらと吐露させすぎているあたりが鼻につくのが残念といえば残念である。ただ、そのかわり――といっては何だが、道尾作品ではもはや定番となった感がある「家族」「葛藤」というテーマをこれまで以上に前面に押し出したストーリーテラーとしての試みは決してうらぶれることはなく、その意味では、期待以上のできばえと言えるだろう。
「家族」「葛藤」というテーマをめぐって、しとどに降り続ける雨が支配する暗澹たる世界で描かれる事件そのものは陰惨で、そして哀しい感じだけれども、読後の感覚は存外さわやかな作品である。
謎亭論処―匠千暁の事件簿 (祥伝社文庫 に 5-3)謎亭論処―匠千暁の事件簿 (祥伝社文庫 に 5-3)
(2008/03/12)
西澤 保彦

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 本書は、架空の地方都市・安槻市を舞台に、メインキャラクターである匠千暁(通称タック)、辺見祐輔(ボアン先輩)、高瀬千帆(タカチ)、羽迫由紀子(ウサコ)の四人の学生たちの探偵譚をえがいたシリーズ短篇集二作めにあたる。一九九六年から二〇〇一年にかけて、『小説NON』と『小説現代増刊メフィスト』に掲載された七作もの短篇群にくわえ、『IN★POCKET』(講談社)(一九九七年一二月号)に掲載された「名探偵の自筆調書」のリライト作『新・麦酒の家の冒険』(タイトルからして、当シリーズの長篇第二作『麦酒の家の冒険』(一九九六年)の続編という趣向であるのはあきらかだ)を併録。
 ちなみに、上で、四人の学生たち、と記したけれども、じつを言えば、それは便宜上のことであって、実際には、当シリーズ短篇集一作めにあたる『解体諸因』と同様、収録されたエピソードによって学生であったり、あるいは社会人であったりする。
 だが、時代設定や舞台設定に相違があれど、収録作はいずれも、奇抜でケレン味のきいた刺激的な謎、重箱の隅をつつくかのような理詰めの考察、いささかはったりじみた論理の飛躍から導き出される意外な合理性をまとった真相と、三拍子そろった「西澤ブランド」の真骨頂と言え、これぞ西澤流パズラー! と溜飲を下げる読者も多いことだろう。
 また、時間経過とともにメインキャラクターたちと、その内部における人間関係が成長したり、変化したりする成長小説としての趣きが強いのが当シリーズなのだが、それにしては、メインキャラクターたちの関係性が比較的安定しているのも本書の特徴の一つに挙げられるだろう(もちろん、作品によって学生であったり、社会人であったりするわけだから、そういった意味でのメインキャラクターそのものとそれに付随する人間関係には、多かれ少なかれ成長や変化が確認できるのだが)。たとえば、メインキャラクターたち、とりわけタックとタカチの家族に関連する「しがらみ」と向き合っていくのが主なテーマとなっている長篇シリーズの潮流とくらべると、そのちがいは歴然である。すくなくとも、本書に収録された作品における彼らは、長篇作品群では顕著な身内にかかわる重い枷(かせ)からは大きく解放されており、誤解を恐れずに言えば、総じて他人事だからと、謎解きに没頭し、満喫できているのである。そして、そういった「安定した環境」という土台こそが、上述した「西澤ブランド」の利点を担保している側面も指摘できるだろう。
 このシリーズは、むろん長篇にも秀作は多いが、短篇もまた同じなのである。
 現時点において、上梓された当シリーズの長篇は六作。それにくらべて、短篇集は三作(『解体諸因』と本書、それから『黒の貴婦人』)。何だかさびしい気がするが(まあ、いろいろと事情があるのだろうが)、しかし本書で確認できる「環境が安定した」短篇であれば、一定の水準を保持しながら、もっともっと量産できるはず。シリーズ短篇集の続刊を期待したい。
赤い指 (講談社文庫)赤い指 (講談社文庫)
(2009/08/12)
東野 圭吾

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 テレビ化もされいまや大人気の「ガリレオ」こと湯川学シリーズと並行して、コンスタントに上梓されるのが刑事・加賀恭一郎を主人公にすえたシリーズだが、本書『赤い指』(〇六年)は後者に属するシリーズ作品で、第134回直木賞受賞作『容疑者Xの献身』(〇五年)に続いて刊行された。
 加賀シリーズの作品は、これまで『どちらかが彼女を殺した』(一九九六年)や『私が彼を殺した』(一九九九年)などのフーダニット(犯人当て)を重視したパズル仕立ての作品や、『悪意』(一九九六年)のようにホワイダニット(動機探し)に重点を置いた作品、それから、謎解きと併せて社会派推理小説のような現実的なテーマの追及にもこだわった『嘘をもうひとつだけ』(二〇〇〇年)など、バラエティに富むが、シリーズ七作めとなる本書では、いわゆる倒叙形式が採用され、犯人側と加賀をはじめとする警察側の緊迫感あふれる駆け引きを中心として、謎解きの贅を尽くしながらも、社会的なテーマの追及に比重を置いた試みがなされている。そしてそのテーマとは、「家族のありかた」である。

 急きょ妻に呼び出され、自宅に戻ってきた会社員の前原昭夫は愕然とした。見知らぬ少女の絞殺体を発見したのだ。
 妻から事情を聞いた前原は、中学生になる不肖のひとり息子・直巳が少女を手にかけたことを知る。善良たる社会人としてすなおに息子を警察に引き渡すか、それとも息子の未来と一家の安定を守るために事実を隠ぺいするか――。絶体絶命の窮地に立たされたふたりは、議論のすえ、後者を選択し、死体をべつの場所へ遺棄することを画策する。
 だが、そうした苦肉の策も空しく、少女の死体遺棄事件を捜査する練馬署の刑事・加賀恭一郎と捜査一課の刑事・松宮脩平は、真相にむけて一歩一歩着実に近づいていく。
 かくして土壇場まで追いつめられた前原は、いよいよ、温めていた「禁断の手」を使うことを余儀なくされるのだった――。

 倒叙形式の謎解きミステリといえば、東野作品で真っ先に思い浮かぶのは、言わずと知れた『容疑者Xの献身』だろう。だが本書は、あの作品ほど謎解きミステリの結構に忠実なストーリーが組みこまれているわけではない。いや、たしかに本書では、加賀の(タイトルにもなっている)「赤い指」をめぐっての考察から、死体遺棄の実行犯である前原の「禁断の手」を利用したもくろみが論理的に解体される仕組みを有していることがおいおいあきらかとなってくる(ちなみに、その文脈における加賀の水も漏らさぬ推理はじつにみごとである)。ところが、加賀は真相を知りながら、あえてそれを明かさないのである(松宮の述懐、「(前略)――加賀は、赤い指に気づいていながら、なぜその時に指摘しなかったのか。そうしていれば、もっと早くに真相を明らかに出来たはずなのだ。」(283ページより))。それはなぜかといえば、加賀の言葉を借りて言うと、「この家には、隠されている真実があ」り、「それはこの家の中で、彼等自身の手によって明かされなければならない」たぐいの問題だからだ。その問題とは、もちろん、テーマである「家族のありかた」である。
 そして事実、真相は加賀たち外部の視点から明かされるのではなく、前原一家という内部から明かされることになる。ある意味、「理」よりも「情」が優先される瞬間である(実際その場面にはたいへんドラマティックな演出が施されている)。加賀たち外部の者は、事件解明の舞台を演出する裏方的存在、あるいはバイプレイヤーであり、スポットライトを浴びる主演役者は前原一家なのだ。しばらくしてから、「ある意味、事件よりも大切なこと」(285ページ〜286ページ)として、前原たちと読者の思惑をはるかに超えたところからやってくる、不意打ちを食らわすかのような驚愕の真実も、「家族のありかた」というテーマ性をよりいっそう印象深いものにしている。
 
 それからもうひとつ、本書で見逃せないのは、加賀もまた疎遠な父と向き合わざるをえない顛末が副次的なエピソードとして挿入されていることである。ガンに侵され、余命いくばくもない彼の父の面倒をいっさいみようとしない薄情な加賀に対して、加賀のいとこに当たる松宮が非難する場面がある(148ページ)。それに対して、加賀はこう返答する。「どういうふうに死を迎えるかは、どう生きてきたかによって決まる。あの人がそういう死に方をするとしたら、それはすべてあの人の生き様がそうだったから、としかいえない」「暖かい家庭を作った人間は、死ぬ時もそのように送り出してもらえる。家庭らしきものを作らなかった人間が、最後だけそういうものを望むのは身勝手だと思わないか」
 謎めく発言だが、その真意はエピローグであきらかとなる。ちなみにこの場面は、前原一家にまつわるエピソードの大団円と同様、かなりドラマティックに演出されており、『容疑者Xの献身』ファンは必見と言えるだろう。
 ともかく、こうした、前原家と加賀家それぞれで展開される「家族のありかた」を比較検証しながら、読者自身みずからの「家族観」や「社会観」、あるいは「倫理観」といったものについてあらためて自問し、考えなおしてみるのも一興だろう。


 
 知る人ぞ知るスペインのアンビエント・ミュージック・クリエイター、マックス・コルバチョの七作めのアルバムを聴く。
 特徴はというと、幻想的で、ひんやりとしていて、どこか宇宙を想起させるようなエレクトロニカ/アンビエント・サウンドが淡々と広がる感じ。聴き手を何らかの表現で煽るようなことはいっさいない。ただひたすらスぺーシーなドローンが展開されるだけなのだ。ほんとうにシンプルな世界。
 このアルバムはずいぶん前に購入したのだけど、いまだにしょっちゅう聴いている。休憩タイムにさらりと流したり、寝るときにさらりと流したり。
 よく言えばミニマル、悪く言えば地味で消極的。だけど、このそっけない感じがよいのだ。聴き手に干渉してこない感じが。
 もちろん、主張が激しい音楽、たとえばロックやポップなどもぼくは好きだ。極端なジャンルで言えば、スラッシュメタルやデスメタルだって好き。でも行き着く先は、やはりこうしたたぐいの孤高のミニマル音楽という気がする(いささか抽象的な表現で申しわけない)。それは、ひとりでいるのが好きな自分の性格傾向と軌を一にしているように思う。
 まあとにかく、そういうむきにはお薦めできるアルバム。ぜひお試しあれ。
 このブログ、FCブログのアクセス・ランキング、ミステリー小説部門にて現在二位にランクインされてるそうで。先ほど、はじめて知りました。いやもちろん、けっこう前にランキングに登録したことは覚えてますが、それにしてもいつの間に――って感じ。ちょっとびっくり。
 それはともかく、これもみなさまのおかげです。ありがとうございます。そして、今後ともごひいきに、よろしくお願い申し上げます。
砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない  A Lollypop or A Bullet (角川文庫)砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet (角川文庫)
(2009/02/25)
桜庭 一樹

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 舞台は日本海沿いの山と海に囲まれた鳥取県は堺港市。「あたし」こと山田なぎさという少女が通う中学校に、都会から海野藻屑という美少女が転校してきた。この藻屑という美少女は、かつてミュージシャンや俳優として一世を風靡した海野雅愛を父に持つお嬢さま育ちであり、その端正な顔立ちもさることながら、身なりも年不相応に高価なブランド品に包まれていて、全身からハイソな雰囲気を醸し出している。ただし、虚言癖と奇行癖があるのが玉に瑕で、自分は「人魚」だと周囲にうそぶいては、あたかもそれを証明するかのように、あたりかまわずペットボトルのミネラルウォーターをそれこそ浴びるほど飲んでみせるのだ。
 そんな絵空事を臆面もなく並べ立てる藻屑に、なぎさは――恵まれない家庭環境に生まれ育ち、それゆえ一刻も早く社会に出て、現金という「実弾」を手に入れることを切望している自衛官志望のなぎさは――嫌悪感をいだいていた。だが、そんななぎさに、藻屑はなにかとコンタクトをとってくる。当初は避けがちだったなぎさだが、しかし接触していくにつれて徐々にあきらかとなる藻屑の秘められた不幸に感化されていき、いつの間にかふたりは親しくなっていった。
 ――しかし、それから約一ヶ月後。藻屑は、山の中腹で、バラバラ死体として発見される――

(この先からは核心に触れておりますので、予断を持ちたくないかたはご注意ください)

 子どもがその特異な境遇ゆえの無力感に打ちひしがれる情景が描かれるという意味では、他の多くの桜庭作品と軌を一にするが、アプローチのしかたはそれらとは根本的に異なる。というのも、山田なぎさという少女の「あたし」という一人称で語られる本書(〇四年)では、物語がはじまる前から、新聞記事の抜粋という体裁で、重要人物のひとり・海野藻屑がバラバラ遺体で発見されるということが、あらかじめ読者に明かされているのである。本書は、それを前提に幕を開ける物語なのだ。むろん、藻屑が殺される運命にあるということを知らされているのは読者だけであり、なぎさをはじめとする作中の人物たちがそれを知るよしもない。一ヶ月後に起こる悲劇など、彼女たちに予測できる道理はない。したがって、読者にとっては、殺され、バラバラ死体になることを運命づけられた藻屑を偲ぶ、いわば「追憶」の物語として、同時にまた、そんな藻屑を救済することがついぞ叶わなかったなぎさの「挫折」の物語として、総体的に言うならば「悲劇」の物語として、本書といやおうなく接することになるのである。
 そしてそのうえで作者は、そうした骨組みに、「実弾」(=現金)主義者を標榜する実際家のなぎさと、「ぼくは人魚」と標榜し、そうして虚構の世界に逃避しては「砂糖菓子の弾丸」をぽこぽこと撃つしか手立てがない虚構主義者の藻屑という血肉を通わせる。この一見対比的なふたりの組み合わせは示唆に富む。なぎさは、家庭環境の困窮ゆえ、子どもなのに大人のように家族と接し、家事をしたり引きこもりの兄の世話をしたりする。藻屑は、父親の理不尽な体罰から目をそむけ、それどころか自身の体にある体罰の痕跡を逆手にとって「ぼくは人魚」だとうそぶく。このふたりは、自分は生来そういう性質、個性を持っていて、だから一般的には劣悪とみなされる家庭環境でも難なく切り抜けられる「特別」な人間なんだと懸命に思いこんでいるふしがある。――しかし、哀しいのは、そうした彼女たちの自己イメージが、じつは直視しがたい現実に見舞われている自身の境遇を正当化する心理がつくりあげた虚像に過ぎないということ。彼女たちの自己イメージは能動性をなんら有さない。あくまでもそれぞれの家庭環境ありきでつくりあげられた受動的なものに過ぎないのだ。その事実を、後段で、なぎさと藻屑はいやおうなく思い知らされることになる。そして、かろうじて彼女たちを支えていた基盤そのものがじつは偽りで、もろくて崩れやすいものであったことを身をもって知ったとき、彼女たちはほんとうの「自由」を手に入れるべく、ふたりで逃走することを画策する。
 ところが、よもや「自由」になる寸前で、藻屑が父親の手で殺されることになろうとは――。
 あまりに皮肉でかつ痛切な結末だが、同時にこの場面は、「読者にとっては藻屑が殺される運命にあることはあらかじめ知っていることだが、登場人物たちはそのことを知らない」という仕掛けが最も効果を発揮する瞬間でもある。かりにもしこの物語が、藻屑となぎさが現実の自分をありのままに受け入れることなく、それぞれの虚像と戯れるがままに終始していたのだとしたら、冒頭の仕掛けは空回りしていたことだろう。おそらくなぎさは、藻屑の訃報を知らされても、当初は気の毒にとは思っても、やがては忘却し、そのまま実弾主義を貫き通していたことだろう。いっぽう藻屑は、父親が自分の命を奪おうとしているのを知っても、それも運命と諦観――いや、愛する父親に殺されるのであればむしろ本望であると割り切っていたことだろう。
 ところが実際には、ふたりは峻厳な現実にからめとられた自分を自覚する。子どもはみずからの家庭環境を選べず、そして、どれだけ劣悪な環境に見舞われようが、親の庇護のもとで育てられている以上、子どもにそこから逃れられるすべはないということを。しかしそれでもなお、「自由」になりたいという欲求が勝り、たがいに手をとり合って親からの逃走を行動に移した――その矢先に、藻屑が殺されるという悲劇がとつじょ降りてくる。だからこそ、冒頭の仕掛けが、そしてこの「悲劇」の物語が生きてくるのだ。
 人間なら、子どもであれ大人であれ誰もが、心身ともに充実した生を享楽したいと願っている。だが現実はそう上手くはいかない。まして子どもは、その境遇ゆえに状況を打開するすべを持たないし、打開しようと試みても、そもそも子供の言うことなすことだからと、なまじ子どもを庇護する立場にある大人はえてして歯牙にもかけない。だが実際には、子どもは子どもなりの論理で物事を考えているし、たしかに判断を誤ることも多いかもしれないが、同時に、大人よりも先に真理に到達することだって起こりうるのではないだろうか――?
 本書は、読者に対して、切実にそう問いかけているように思えてならない。
 おまけ的なネタをひとつ。
 海野藻屑が父親に自宅でバラバラに解体され、その切断された肢体をトランクに詰められ、外に運び出されるシーンがあるが、このシーンから、ある古典作品を連想しないだろうか? 不可能犯罪のマエストロ、ジョン・ディクスン・カーの某短篇である。
 たしか桜庭一樹さんは、カーの愛読者のはず(以前、どこかのインタヴューでカーの名作『火刑法廷』をフェイヴァリットに挙げていたはず)。もしかしたら桜庭さんは、その作品のアイデアを意図的に借用し、本書に応用しているのではないだろうか?
 だとしても、もちろん、トリックの扱いかたまで模倣しているわけではない。そのトリックを、カーは「本格」に適用し、いっぽう桜庭さんはサスペンスに適用しているのだから。

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少女には向かない職業 (創元推理文庫)少女には向かない職業 (創元推理文庫)
(2007/12)
桜庭 一樹

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 舞台は山口県下関市の沖合にある辺鄙(へんぴ)な島。中学二年生の大西葵という少女は、学校ではひょうきんな言動で周囲の空気を和ますムードメーカーとして認知されている。いっぽう家では、それとは裏腹に、漁港でパートとして働きに出ていていつも疲れて不機嫌な感じの母と、事故で足をけがして以来、働きもせず酒に溺れては葵や母に暴力をふるう自堕落な義父とに縛られて、日々窮屈な思いを味わっている。
 そんなある日のこと。葵は、ひょんなきっかけから、クラスメイトだがこれまで疎遠な間柄でしかなかった宮乃下静香というミステリアスで薄幸そうな少女と交流を深めていく。そしてある日、話がふと葵の義父のことに及んだとき、静香はこう提案する。「葵、ぜったいみつからない人の殺し方、教えてあげようか」
 かくして、ふたりは「完全犯罪」を試みることになるのだが――

(この先からは物語の核心の一部に触れておりますので、先入観を持ちたくないかたはご注意ください)

『推定少女』や『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(ともに〇四年発表)など、閉塞的な環境に身を置く(というか、置かざるをえない)少女たち特有の悲哀をおびた心情や現実をヴィヴィッドに描くことに定評のある作者だが、本書(〇五年)は、結論から言えばそうした作者の本領がいかんなく発揮された内容である。身体的にも、精神的にも、それから立場的にも非力な少女たち。仲のよいクラスメイトたちとささいな行き違いがあり、誤解を解くべく釈明しようにも、考えがおぼつかないがために、ひっきょう理解が得られない葵。苦い思いを抱えたまま自宅に戻ると、こんどは生活苦を顔ににじませた母から「おまえのためにこれだけ苦しい思いをしているのに、おまえときたらのんきに楽しい思いばかりして」と恩着せがましく一方的に罵られる。必死で釈明しようにも、先方はしょせん子どもの言うことだからと馬耳東風で、返される言葉は決まって「子どものくせに」「親にむかって偉そうに」である。また、義父から理不尽に暴力をふるわれるが、正攻法では当然ながら非力な彼女に対抗しきれるわけがない。
 このように、本書には、葵をはじめとして、どこへ行って、なにをやるにしても、ほんとうに落ち着ける居場所というものを見いだすことができない少女たちの非力ゆえのやるせなさやはかなさがどこまでも付きまとっていて、じつに痛ましい。
 また、そうした不幸が積もり重なることで、後段ではついに殺人に手を染めてしまう葵と静香が描写されることになるのだが、その文脈ではミステリ小説で解釈されるところの遠隔トリックや密室トリック、物理トリックなどが確認できる。だが、そうしたトリックの扱いかたは、通常のミステリ小説のそれとは大幅に異なっている。端的に言えば、本書でのトリックとは、その巧緻な仕組みによって読者を驚かせることが目的に仕掛けられるのではない。あくまでも彼女たちの非力さと悲痛さを引き立てる手段に過ぎないのである。
 それが証拠に、彼女たちなりに考案したトリックを駆使して、大人たちとの闘いに挑んだ結果、勝利をおさめて「自由」を勝ちとったはずの葵と静香の表情にはなにが残っていたか。そこには、勝利をおさめた者がいだく恍惚感や解放感は皆無であった。それどころか、なまじ大人に刃向かったがために、最悪のかたちで自分たちの非力さをあらためて痛感するはめに陥った者がいだく絶望感が浮き彫りになっていたではないか。
 こうしたシリアスな顛末からすると、ちぐはぐな印象を受ける、さわやかな青空をとらえた本書のカヴァー写真――。きっとそれは、葵と静香にとっての「自由」を象徴する夢想の世界にちがいない。
弥勒の掌 (文春文庫)弥勒の掌 (文春文庫)
(2008/03/07)
我孫子 武丸

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 ある日高校教師の辻恭一は自宅に戻ってくると、妻ひとみの姿が見えないことに気づく。どうやら家出したらしい。
 しかし彼はみずから妻を捜すこともせず、警察に捜索を要請することもしなかった。というのも、いまから三年ほど前、辻は当時の教え子であった千秋という女子生徒と深い仲となり、それが嵩じたあげく妊娠させてしまったというスキャンダルを起こしていた。それ以来、彼と妻との夫婦関係は冷え切っていた。そのため辻は妻の家出の理由を、ついに彼女が自分に愛想を尽かし、出奔したのだと考えたのである。
 ところが、辻はのちに警察から妻殺害容疑の嫌疑をかけられてしまう。それを契機に、みずからの嫌疑を払拭するためにも、やむなく妻の捜索を独自に敢行することになった彼は、やがてその失踪の背景に「救いの御手」という新興宗教団体が何らかのかたちで絡んでいるらしいという情報をつかむ。
 ――いっぽう、刑事の蛯原篤史は、妻の和子が何者かに殺されたという事実を知る。現場がラブホテルということを聞くに及んで彼は、義憤に燃え、独自に妻を殺した犯人を見つけ出し、みずからの手で仇を討つことを決意する。そして、単独捜査の過程で、妻の殺害事件の背景に「救いの御手」という新興宗教団体が何らかのかたちで関与していることを知る。
 そうして、「救いの御手」という共通要素で、辻と蛯原は思わぬかたちで出会うことに――

「新興宗教」をテーマにした作品と聞くと、誰もが真っ先にシリアスな作風を連想するだろうが、本書『弥勒の掌』(〇五年)ではそうした重厚感は思っていたよりはさほど感じられない。基本的に辻と蛯原の三人称視点を交互に配してつむがれた本書は、いっそさばさばとした物語とさえ言えるだろう。とりわけそれは、蛯原の奔放にして豪快、「曲がったことは大嫌い」「考えるよりもまずは行動」という人好きのしそうな実際的なキャラクターによるものが大きいとまずは考えられる。たしかに蛯原のパートにも、サスペンスは濃厚に漂うが、それはミステリ風というよりは、むしろある種の冒険活劇風に咀嚼(そしゃく)されている感じなのである。
 また、宗教というテーマを扱う手つきが、既成の数多ある同テーマをとり入れた作品よりもずいぶん現代的で、かつ都会的に洗練されているのも要因として挙げられる。――しかも、その二つの要素は、単なる味つけにとどまらず、じつはラストパートであきらかとなるサプライズと密接にかかわってくるのだ。
 ミステリとしてのメインの仕掛けは二つあり、いずれも不意打ちから来るサプライズではあるが、冒険活劇風の作風と従来の宗教ものとは一線を画した作風それ自体が一種のミスディレクションとして機能しているのである。さらに言えば、「こういう描写、展開なら、小説作法上、省略して当然」といった作者と読者との間にある不文律を逆手にとって、読者を心理的にミスリードさせる手際も冴えている。そしてそれらがそのまま、解決シーンにおいて「意外な探偵役」を浮かび上がらせるのである。こうした本末転倒というか、ある種のバカミス的な解決シーンは、おそらく前例がないのではないだろうか。
 構造的には「本格」ではなくサスペンスとみえ、実際作者とてそのつもりで本書をものしたそうだが、それでも随所に「本格」出身者らしい遊び心が反映された内容であるのがうれしい秀作だ。

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