舞台は日本海沿いの山と海に囲まれた鳥取県は堺港市。「あたし」こと山田なぎさという少女が通う中学校に、都会から海野藻屑という美少女が転校してきた。この藻屑という美少女は、かつてミュージシャンや俳優として一世を風靡した海野雅愛を父に持つお嬢さま育ちであり、その端正な顔立ちもさることながら、身なりも年不相応に高価なブランド品に包まれていて、全身からハイソな雰囲気を醸し出している。ただし、虚言癖と奇行癖があるのが玉に瑕で、自分は「人魚」だと周囲にうそぶいては、あたかもそれを証明するかのように、あたりかまわずペットボトルのミネラルウォーターをそれこそ浴びるほど飲んでみせるのだ。
そんな絵空事を臆面もなく並べ立てる藻屑に、なぎさは――恵まれない家庭環境に生まれ育ち、それゆえ一刻も早く社会に出て、現金という「実弾」を手に入れることを切望している自衛官志望のなぎさは――嫌悪感をいだいていた。だが、そんななぎさに、藻屑はなにかとコンタクトをとってくる。当初は避けがちだったなぎさだが、しかし接触していくにつれて徐々にあきらかとなる藻屑の秘められた不幸に感化されていき、いつの間にかふたりは親しくなっていった。
――しかし、それから約一ヶ月後。藻屑は、山の中腹で、バラバラ死体として発見される――
(この先からは核心に触れておりますので、予断を持ちたくないかたはご注意ください)
子どもがその特異な境遇ゆえの無力感に打ちひしがれる情景が描かれるという意味では、他の多くの桜庭作品と軌を一にするが、アプローチのしかたはそれらとは根本的に異なる。というのも、山田なぎさという少女の「あたし」という一人称で語られる本書(〇四年)では、物語がはじまる前から、新聞記事の抜粋という体裁で、重要人物のひとり・海野藻屑がバラバラ遺体で発見されるということが、あらかじめ読者に明かされているのである。本書は、それを前提に幕を開ける物語なのだ。むろん、藻屑が殺される運命にあるということを知らされているのは読者だけであり、なぎさをはじめとする作中の人物たちがそれを知るよしもない。一ヶ月後に起こる悲劇など、彼女たちに予測できる道理はない。したがって、読者にとっては、殺され、バラバラ死体になることを運命づけられた藻屑を偲ぶ、いわば「追憶」の物語として、同時にまた、そんな藻屑を救済することがついぞ叶わなかったなぎさの「挫折」の物語として、総体的に言うならば「悲劇」の物語として、本書といやおうなく接することになるのである。
そしてそのうえで作者は、そうした骨組みに、「実弾」(=現金)主義者を標榜する実際家のなぎさと、「ぼくは人魚」と標榜し、そうして虚構の世界に逃避しては「砂糖菓子の弾丸」をぽこぽこと撃つしか手立てがない虚構主義者の藻屑という血肉を通わせる。この一見対比的なふたりの組み合わせは示唆に富む。なぎさは、家庭環境の困窮ゆえ、子どもなのに大人のように家族と接し、家事をしたり引きこもりの兄の世話をしたりする。藻屑は、父親の理不尽な体罰から目をそむけ、それどころか自身の体にある体罰の痕跡を逆手にとって「ぼくは人魚」だとうそぶく。このふたりは、自分は生来そういう性質、個性を持っていて、だから一般的には劣悪とみなされる家庭環境でも難なく切り抜けられる「特別」な人間なんだと懸命に思いこんでいるふしがある。――しかし、哀しいのは、そうした彼女たちの自己イメージが、じつは直視しがたい現実に見舞われている自身の境遇を正当化する心理がつくりあげた虚像に過ぎないということ。彼女たちの自己イメージは能動性をなんら有さない。あくまでもそれぞれの家庭環境ありきでつくりあげられた受動的なものに過ぎないのだ。その事実を、後段で、なぎさと藻屑はいやおうなく思い知らされることになる。そして、かろうじて彼女たちを支えていた基盤そのものがじつは偽りで、もろくて崩れやすいものであったことを身をもって知ったとき、彼女たちはほんとうの「自由」を手に入れるべく、ふたりで逃走することを画策する。
ところが、よもや「自由」になる寸前で、藻屑が父親の手で殺されることになろうとは――。
あまりに皮肉でかつ痛切な結末だが、同時にこの場面は、「読者にとっては藻屑が殺される運命にあることはあらかじめ知っていることだが、登場人物たちはそのことを知らない」という仕掛けが最も効果を発揮する瞬間でもある。かりにもしこの物語が、藻屑となぎさが現実の自分をありのままに受け入れることなく、それぞれの虚像と戯れるがままに終始していたのだとしたら、冒頭の仕掛けは空回りしていたことだろう。おそらくなぎさは、藻屑の訃報を知らされても、当初は気の毒にとは思っても、やがては忘却し、そのまま実弾主義を貫き通していたことだろう。いっぽう藻屑は、父親が自分の命を奪おうとしているのを知っても、それも運命と諦観――いや、愛する父親に殺されるのであればむしろ本望であると割り切っていたことだろう。
ところが実際には、ふたりは峻厳な現実にからめとられた自分を自覚する。子どもはみずからの家庭環境を選べず、そして、どれだけ劣悪な環境に見舞われようが、親の庇護のもとで育てられている以上、子どもにそこから逃れられるすべはないということを。しかしそれでもなお、「自由」になりたいという欲求が勝り、たがいに手をとり合って親からの逃走を行動に移した――その矢先に、藻屑が殺されるという悲劇がとつじょ降りてくる。だからこそ、冒頭の仕掛けが、そしてこの「悲劇」の物語が生きてくるのだ。
人間なら、子どもであれ大人であれ誰もが、心身ともに充実した生を享楽したいと願っている。だが現実はそう上手くはいかない。まして子どもは、その境遇ゆえに状況を打開するすべを持たないし、打開しようと試みても、そもそも子供の言うことなすことだからと、なまじ子どもを庇護する立場にある大人はえてして歯牙にもかけない。だが実際には、子どもは子どもなりの論理で物事を考えているし、たしかに判断を誤ることも多いかもしれないが、同時に、大人よりも先に真理に到達することだって起こりうるのではないだろうか――?
本書は、読者に対して、切実にそう問いかけているように思えてならない。