保育園落ちてもいい」親たち。待機児童の一方で「不承諾通知」歓迎と内定辞退続出の訳

 ですから、けっきょくこれからの時代は、家庭での性別分業を弱めて、女性に任せっきりではなく、男性も育児に積極的に参加していかなければ、いけないと思うわけです。
 でもそのためには、正規労働者の労働時間短縮(欧米先進国とくらべると、残業時間を含めた日本の労働時間の規制はとても甘い)や、男性の育児休業取得率の上昇(政府や経営者団体が、男性が育児休業を取得できない、もしくは取得しづらい旧態依然とした職場環境の改善を、推進しなければならない)や、接待などの商慣行の改善(接待を担当する営業職は、男性が担当することが圧倒的に多い)などが、必要となるはずで。
 それからもちろん、保育サービスの充実もしかり。ほかの先進諸国とくらべると、日本は保育への公的支出が、とても少ないです(対GDP比)。


 本書『フレンチ警部最大の事件』(1925年)は、作者F・W・クロフツが生みだした唯一のシリーズ探偵・フレンチ警部が初登場する長篇ミステリです。
 宝石商の支配人を殺害した犯人と、それから、金庫から消えた三万三千ポンドのダイヤモンドのゆくえを追って、職業熱心なスコットランド・ヤードのフレンチ警部が、英仏横断、さらにはスイスやスペイン、ポルトガルといった西南ヨーロッパを舞台に、地道な足の捜査を繰り広げるのが、本書のおもだった特徴。
 事件の真相は、犯行方法にせよ犯行動機にせよ、明かされてみればいたって即物的で、単純明快なのですが、フレンチ警部が鋳型から抜け出せなくて、探偵としては凡庸であるがために、捜査の過程で大きなヘマをやらかしてしまうと。で、そのせいでかえって事件の様相を複雑かつ不可解なものにしてしまうという、クロフツ作品のお決まりのパターンです。ただ、それでもスパイ小説ふうの暗号解読のなぞが出てきたり、意外な安楽椅子探偵(?)の登場があったりと、質実剛健なクロフツなりに随所にくふうを凝らしているあたりが、本書のポイントといえそうです。また、西南ヨーロッパを列車で移動する場面が多く、ややもすればフレンチが風景に魅了される描写があるので、『スターヴェルの悲劇』(27年)の書評(追記)でも書きましたが、たしかにトラベル・ミステリとしての興趣がありますね。
 
 そういうわけで、展開がのろいのはイヤ、というかたには本書(というか、大半のクロフツ作品というか)はあまりオススメできません。……いや。思うに、探偵と犯人の攻防、そして、壮大な西南ヨーロッパという大舞台の、ふたつの要素によってもたらされる<相乗効果>、これがあるから、いちがいに断言できないところがあって。
 というのも、上述したように探偵が凡庸なため、一歩一歩、遅くても着実に犯人を追い詰めていくのですが、その過程において、ときどきヘマをやらかします。すると、それを知った犯人は、追い詰められながらも、逃亡のためにうまく利用してやろうと、ここを先途とたくらむわけです。そのように、一見のろい展開のなかにも、じつは「探偵vs犯人」の攻防がスタティック、かつリアルタイムで変化してゆくといった緊張感があるんです。それだけに、無駄骨おりの連続で、狡猾な犯人に振りまわされるばかりのフレンチの犯人逮捕への執念や気迫は、真に迫ったものであるし、同時にまた犯人にしても、万策を弄して、どうにかこうにか警察の手から逃れようとするそのありようが、真に迫っていて。
 ところでクロフツ作品は、一貫して「足の探偵」を採用することから「リアリズム推理小説」と呼ばれるのが一般的のようですが、ぼくにいわせれば、それは皮相的な見かたにすぎません。そうではなくて、じつは、探偵と犯人のいわば追いかけっこが、肉体的な意味でも心理的な意味でも、真に迫った描写がなされている(すくなくとも、事件のからくりが種あかしされたあとで、そのありようが、くっきりと浮かび上がってくる)。だからこそ「リアリズム推理小説」なんです。
 そういう意味では、これは社会派ミステリの源流ともいえるでしょう。


 英国探偵小説の大傑作『樽』(1920年)の作者として知られる、フリーマン・ウィルス・クロフツの七作め『スターヴェルの悲劇』(27年)を読了(スコットランド・ヤードのフレンチ警部が探偵役として登場するシリーズ作としては、これが三作めにあたります)。
 クロフツはアリバイ崩しで有名で、本書でもそのシーンは出てくるものの、けっしてそれがメインの謎ときではありません。ひらめきよりも経験・行動の、「足の探偵」と称される堅実なフレンチ警部の凡庸さゆえに、狡知にたけた真犯人のミスリードにまんまとはまってしまうというミスディレクション重視のプロットが、ポイント。
 本格推理といえば本格推理ですが、フレンチをはじめクロフツのえがく探偵には、良くいえば職人的、悪くいえば株を守ってウサギを待つところがあって(クロフツは退屈、とややもすれば評されるゆえんです)、そのせいで画竜点睛を欠くところが、しばしばある(本書では「第三の死体の謎」の処理のしかたに、それが顕著です)。本書でも、推理・捜査が行き詰まったフレンチに対して、フレンチよりも頭の切れる上司(ミッチェル首席警部)が、気分転換と称してさりげなく局面打開のためのアドバイスをしたりする場面があって、あきらかにクロフツは、個人よりも組織、という力学を強く意識して書いています。だから、本格推理というよりもむしろ、「本格捜査小説」といった趣きであって(警察小説というのとは、またちがって)。
 大半のクロフツ作品に共通する、事件の本筋をひたすら追うというストイックな作風はむしろ好ましく、本書も悪くはないできの作品ですが、ただ、こうした重厚な「足の捜査」を喜ぶひとは、少数派なのかなあ。いわゆる「いまどきの『本格』読者」は、はたして付いていけるのだろうか?

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 綾辻行人さんの<囁き>シリーズ三部作の一作め『緋色の囁き』(一九八八年)を読了(再読)。
 初読は、ずいぶんまえのことで(高校のころだったっけ?)、内容はほとんど忘れていました。本書最大の関心ごとであろう「意外な犯人」のことすらも、不思議と忘れてました(どれだけまえに読んだ作品でも、たいてい犯人のことは覚えてるのですが)。
 正直、この「意外な犯人」については、意外といえば意外ですが、その「驚かせかた」に感心しません。これはようするに、個人的な好みからです。
 そもそも本書は、ジャンル的にいうなら、ホラー・サスペンスで、<館>シリーズのような精緻な謎解きを期待して読むと、拍子抜けすることでしょう(その点、三部作の最後を飾る『黄昏の囁き』(九十三年)が、最も本格色が強かったような)。しいていうなら、のちの<殺人鬼>シリーズに相通ずる世界観で。なお、同シリーズは一作めの『殺人鬼』(九十年)を途中まで読み進めて、そのあまりのスプラッター色に耐えきれず、挫折しました(その種の小説が、ぼくは大の苦手で……)。
 
 閑話休題。
 ようするに、ジャンル的にいえば、あまり好みではない作品なのですが、それでも好みとはべつに、その「読後感」にかんしては、特筆すべきものがある。その読後感とは、集約していえば、この作品のテーマ、すなわち<魔女>。
 読みどころは、殺人鬼が、ある種の成員を一人、また一人と殺してゆく過程にあって、その過程において、フーダニットとホワイダニットの謎があると。たしかにこのあたりは、さすが綾辻さん、ストーリーテリングのうまさが目を引きますが、でもその驚かせかたが好みでないということは、さきに述べたとおりです。
 ただし、それでも興味深いのが、このプロット、一人また一人と、どんどん犠牲者が増えるにつれて、いったいだれが「魔女」で、だれが「魔女でない」か、その線引きがしだいに曖昧模糊としてゆくのです。そして、真犯人のすがた、そしてそのうら哀しき人生のありようが、つまびらかに描き出されたとき、ぼくのなかでひとつの懐疑が浮上しました。
 すなわち、この世には「本物の魔女」など存在するのだろうか? もしひとりでも「魔女」がいるということであれば、この世はそのじつ「魔女ばかり」ということにはならないだろうか? でもそれは、裏を返していえば、「本物の魔女」などじつは存在しない、ということなのでは? ……
 作者による最終的なホラー・サスペンスな処理とはべつにして、ぼくはそのような、まるで夢寐にも似た抽象的であると同時に、内実、普遍的な読後感を、まるで上部マントルと下部マントルの境界線を彷徨するプレート残骸になったような気分で、持て余してしまうのでした。